テルとベティ
ベティがふん、と鼻息をついて言った。
『あたしだって、あれはただの夢物語だって思ってたさ。けどミセス・ウェンディは信じてんのよ。彼女は懸命だし、旦那様に目をかけられるくらい強い。ころっと騙されたり、踊らされたりしないと思うけど』
ミチルは眉根を寄せ訝しんだ。
(ウェンディですって? ウェンディはありふれた名前じゃないでしょうから、きっと、あのウェンディのことね。だけど、ミセス? 未婚の女性はミスよね?)
そう言えば、ウェンディはミチルが『神の仔』だと言っていた。この二人にミチルが神の子だと触れ回ったのは、ウェンディなのだろうか。
ミチルが考え込んでいると、テルは少し間を置いて言った。
『ウェンディが『影の民』だったって、知ってるか?』
『それがどうしたっての?』
いくらか真剣味を帯びたテルの声調に、ベティはいくらか興味をそそられたらしい。続くテルの言葉におふざけはなかった。
『ウェンディはガキの頃、銀の悪魔に、家族を食い殺されたらしい』
ミチルはぞっとして足をとめた。
(銀の悪魔? 喰い殺された? 誰に、誰が?)
喰い殺されたと聞いて真っ先に思い出されるのは、ハルメーンの貴族たちが玩弄していたと言う人喰いという獣の存在だ。戦火の混乱に乗じて解き放たれた人喰いによって、たくさんの人間が喰い殺されたと聞いた。
ミチルは人喰いを見たことはない。しかし、テルの言葉に呼応して、チルチルの血の赤さと舌先を駆け巡る至福。火葬される街並みと銀色の魔女の恐ろしさが、瞼の裏に閃いた。
憤怒の形相の魔女の矛に貫かれる幻の痛みが、ミチルの左肩を襲う。ミチルは悲鳴も上げられず、廊下の真ん中に蹲り肩を押えた。ミチルは荒い呼吸を繰り返し、混乱した。
(なに? 今のはなんなの?)
一瞬だったが、あまりに生々しい痛みだった。
(あれは、わたくしの体が発した痛み。わたくしは昔、あの痛みを感じたことがあるということ?)
ショックから立ち直りきれないミチルの耳を、ベティの動揺した声が素通りしていく。
『そんなことが、あったなんて』
ベティは続く言葉を失っている。そうなんだよなぁ。とテルは間延びした声で言った。ひょいと肩を竦めていそうだ。
『当然だが、ウェンディは銀の悪魔を憎んでる。銀の悪魔を駆逐する術を求めて、影の民の掟を破って里を出たらしい。つまり、ウェンディはこの手の話になると、いつもの冷静・冷徹・冷血の三拍子揃った氷の鬼女じゃいられないってことだ』
テルの言葉は軽い癖に奇妙な説得力がある。けれどベティは食い下がった。
『奥様には神の仔のお徴があったって聞いたわよ。青い心臓と青い血を持っていたって』
『伝説に謳われる神の仔の特徴を兼ね揃えた、とびっきりの美女らしいな。旦那様がお傍に置きたがるのは、そういうわけさ。神の仔の権能の真偽なんて、男の欲望の前ではほんの些細な問題よ』
ベティはむっとしたようだ。声が地をはうように低くなる。
『嫌な言い方』
『血が青けりゃなんでもいいなら、そこらへんのムシケラを片っ端から潰してみろよ。青い血のやつが結構見つかるぜ』
ベティは腹をたてていたが、テルがまともに取り合わないので、ばからしくなったようだ。徒労のため息をついた。
『なんでも疑ってかかるのは、あんたの悪い癖だと思う』
『儚い希望を持つのは良いが、打ち砕かれるのは辛いからな』
テルが飄然と嘯くと、ベティはおや、と思ったらしい。ミチルが壁に手をつきよろよろと立ち上がると、ベティが屈託なくテルに訊ねていた。
『そう言えば、あんたも外の生れだったな。ひょっとして、銀の悪魔に襲われたことがある?』
『銀の悪魔に襲われたら、俺みたいな『色濁り』が今ここでこうして、面白おかしく暮らせてるわけがねぇだろって』
ベティは絶句した。声のする方へ近づきながら『色濁り』と言う聞きなれない言葉が、差別的な意味を孕むのだろうとミチルは考えた。良心的なひとなら自虐としてもつかわない悪い言葉なのだろう。
ベティは絞り出すような、固いかすれ声で言った。
『気にすることないわ』
テルは吹けば飛ぶ軽さでベティの心置きを笑い飛ばした。
『お前こそ気にすんなよ。俺は実の母親も認める出来損ないのくせして、これまで恥ずかしげもなくのうのうと生きてきたんだぜ? 今更、思い詰めやしねぇっての。けど、そうだなー。お前が言葉だけじゃなくって体もつかって慰めてくれりゃ、元気になれる気がするな。主に男として』
『たいがいにしとかないと、本当にぶっ殺す』
『ははは、ベティは優しくておバカさんでいいなー! 俺、お前みたいなちょろい娘、スゲー好きだぞ』
『殺す!』
不毛な憎まれ口の応酬がしばらく続いた。ふと訪れた沈黙に、テルは不意にぽつりとつぶやく。
『ただ、仲間が食われるのを見たことはある』
沈黙は針で出来ていて、二人に突き刺さる。ベティが何も言えないでいるうちに、テルが気軽にさっくりと言った。
『こんな体だから、何処に居てもしっくり来なくてよ。あっちへふらふら、こっちへふらふらしてたら、ヴァロワに流れ着いた。そこでたまたま気のいい連中に仲間にひきいれてもらえたんだ。腰を落ち着けかけたとき、ヴァロワで件の人喰い狩りがあって、俺らはヴァロワを追われたのさ。俺は仲間たちにくっついて、当てのない放浪生活に逆戻りよ。そんで、腹を空かせて今にも倒れそうって時に、人間のがきを二人見つけたんだ。男と女が一匹ずつ。なんとなく顔が似てたから、兄妹だったのかもな。見た感じは、ただの人間のがきにしか見えなかったんだが、妹の方が人間の皮をかぶった銀の悪魔だった』
『あんた、よく無事だったね』
テルはちょっとした不運を面白おかしく話しているつもりなのだろうか。気遣われる張本人がけろっとし過ぎているので、ベティの神妙な言葉が空々しく聞こえてしまう。テルはからからと笑った。
『大人たちが、俺を庇ってうまく隠してくれたんでな。不思議なもんだよ、この世界は。血肉を分けた我が子を処分しようとする奴がいる一方で、赤の他人を守るために命をかける奴もいる。どっちもどっち、同じくらい頭がおかしいぜ』
テルの軽率な言葉はミチルにとっても耳障りだった。不謹慎だと眉をひそめたくなる。しかし、ベティは怒り出さなかった。テルは単純な無神経男ではないのかもしれない。少なくとも、ベティはそうとらえている。
しかしそうでないなら、テルは自分で自分の傷口を抉っていることになる。そっちの方がよっぽど不可解で理解できないと、ミチルは思った。
(傷は包帯で隠して忘れるものよ。そうすれば、痛みに涙を流さなくってすむもの)
『辛い話をさせちゃって、悪かったね』
ベティは本当に申し訳なさそうだった。蓮っ葉な物言いばかりするはねっかえりだが、根は素直な良い娘なのかもしれない。テルはあっけらかんと言った。
『別に。素朴な正義感に酔いやすい女を口説くのによく使ってるネタだから。ベティにならきっと効くと思ったぜ、お前って本当に単純。おばかちゃんだもんなぁ』
ベティはぽかんとしたのだろう、ちょっとの間黙ってから
『あんたって……本当に、最低だな……!』
と歯ぎしりした。がきん、と硬いもの同士がぶつかりあう音がする。テルの笑い声が少し上ずっている。テルはあからさまに話題をかえた。
『それに、銀の悪魔だけじゃねぇのよ? 人間が銀の悪魔の体でつくった武器を振りかざしておそってくることだってあんだから』
ベティはかわいそうに、テルが言う通り単純なのだろう。テルの思惑通り、ひらりと怒りを逸らされた。
『人間がね……。あたしは使徒座のお行儀の良い人間どもしか知らないから、そんな凶暴な人間がいるなんて、とても信じらんない』
『大人しいだって? とんでもない! 俺の故郷じゃ、人間たちは俺らみたいなのを銀の鎖で繋いで牢に閉じ込めて飼い殺してたぜ。飽きたら、心臓を抉り出して、それで装身具をつくるんだ』
『そんな残酷なこと、嘘でしょ!?』
しめしめ、とテルがほくそ笑んだのかどうかは、ミチルにはわからない。だいぶ近づいてきたから、そろそろ姿が見えるだろう。そこで表情を確かめればいい。
次の曲がり角を右に曲がろうとしながら、ミチルはテルの話を聞いていた。
『人間って言えば、こんな話もある。銀の悪魔を利用して、俺たちの仲間を言いなりにしようって企む、ふてぇ野郎がいるってな。詳しくは知らねぇがとにかく、姑息で残酷なやり方だよ』
ベティが大きく息をつく。物憂げに言った。
『いつか、銀の悪魔に脅かされないで暮らせる日が来ればいいなぁ』
『さてねぇ』
『あたし、今晩は『奥様が本物の神の仔でありますように』って神様に祈ることにする。あんたは、優しく勇敢な仲間の為に祈りなよ』
『ああ、そうしよう。覚えてたらね。たぶん忘れるけど』
『あんたね!』
『そんなに言うなら、今晩は一緒に過ごす? 寝る前に耳元で囁いてくれればいいんじゃねぇの。名案!』
『……もういい。あんたにまともな神経を求めたのが間違いだった』
『わかればよろしい』
テルが尊大に言うと、ベティが鋭く舌か打つ。ミチルは曲がり角からそっと二人の様子を窺った。
シルエットはひとに近いが、二人とも青い鳥と同じ『天使』だということが、一目見てわかる特殊な容姿を有している。
ひとりはミチルより少し背が低い。ペンギンの頭部とコオロギの触角と手足、蛇の腹と尾をもつ、透き通るようなライトブルーの輝く羽毛や殻で全身を覆われた天使。
もうひとりは、ライトブルーの天使より頭ひとつぶん背が高い。人に近い顔には鼻がなく、ヤギの角をはやす頭は兜を被っているようだ。鎧を纏った騎士のような上半身が馬の下半身にのっている。麦の穂色の石で出来た彫像のような天使である。縦横無尽に走るダークブルーの亀裂が彼らの言うところの「色濁り」だとしたら、後者がテルで前者がベティだろう。
ミチルは二人の天使をしげしげと観察した。二人とも綺麗だが、青い鳥のような神秘性までは感じられない。
(あら? 二人とも、羽が生えていないのね。天使様というくらいだから、みんな羽が生えているものだとばかり思っていたわ)
観察に夢中になって、身を乗り出し過ぎたのだろうか。テルと思しき天使と、ふとしも目が合ってしまった。