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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第二話「ミチルの不安な新婚生活」
16/60

悪夢の正体1

***


 その晩、ミチルは悪夢を見た。


 馬蹄が鳴り響き、馬車の車輪が回転する。悪夢はすぐそこまで迫って来ている。

幼いミチルはチルチルの優しい腕に抱かれて、不思議がって目を瞬かせていた。これから最悪の不幸が身に降りかかることを、幼いミチルは知る由もない。

 そうして、その不幸をとうに通り過ぎてしまった今のミチルは、身を切るように辛い過去を、傍観するより他にはないのである


 初めて出た外の世界は、不吉な火と死の臭いに満ちていて、ミチルはそわそわと落ち着かない。そんな時は、跪いたチルチルの胸に頬を擦りつけ、チルチルの芳しい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。たちまち、ミチルは至福に酩酊することが出来た。と同時に、空っぽのお腹が切なさに悲鳴を上げる。


「おなかすいた……」


 つい、はしたない本心を吐露してしまう。ミチルは我に返って口元を両手で押さえた。怖々とチルチルの機嫌を窺う。苦笑したチルチルに「はしたないよ、ミチル」と窘められると予想していた。

 チルチルは目を瞠って、ミチルを凝視していた。ミチルを抱く腕と胸が硬く強張り、緊張している。ミチルが手をかけた首筋には鳥肌がたち、ほんの少し及び腰になっているようでさえあった。

 ミチルは首を捻った。


「お兄さま? どうなさいましたの? お加減が悪いのですか?」


 チルチルは優しく、慎重と言っていい動作で、ミチルの体を押し返した。きょとんとするミチルに微笑みかけるも、どこかぎこちない。ミチルが訝ると、チルチルは取り繕うように明るく言った。


「ああ……なんでもない。平気だよ、平気だ」

「けれど、お兄さま。ミチルにはお兄さまのご様子が、ちっとも平気そうには見えません。なにを怖がってらっしゃるのですか?」

「なにも」

 

 チルチルはいささか強引にミチルを抱き寄せた。己の首筋にミチルの顔を押しつける。ミチルの吐息がかかると、繊細な産毛がぞわりと立ち上がり、ざわめくように震えた。

チルチルはミチルを、強い力で苦しいくらいに抱きしめている。ありったけの勇気を振りしぼり、恐ろしい怪物のいる川に渡された細い綱を渡っているかのように、四肢の末端まで力がこめられていた。チルチルは上ずった声で言った。


「なにも怖くない。なにも。心配してくれてありがとう。ミチルは優しい子だ。僕の自慢の妹だよ。この僕がそんな君を、どうして怖がったりするものか」


 それは当然のことだ。チルチルがミチルを怖がる理由なんか、なにもない。ミチルは恐れるに足らない、非力で小さな女の子だし、そもそもミチルが恐ろしい獣であっても、チルチルにだけは決して、牙をむいたりしない。チルチルがミチルを怖がるなんて、その発想自体がミチルには無かった。

 けれどチルチルは真っ先に、ミチルへの恐怖心を否定した。自分自身に言い聞かせるような、ミチルに念を押すような、執拗さを感じた。ミチルの戸惑いは、深まるばかりだ。


 もしも、幼いミチルにこの先の未来が見通せたなら、チルチルの手を引いてこの場を逃げることが出来たかもしれない。しかし、ミチルは無防備で無知なこどもでしかなく、悪夢は無情にも二人の許へやって来てしまった。


 一頭の馬がひく箱馬車が、壊れた建物の影から現れた。チルチルは弾かれたように立ち上がり、両腕を頭の腕で大きく振った。

御者はチルチルの姿を見つけると、馬をこちらに向かわせた。馬は割れた石畳を跳ね散らかして疾走してくる。チルチルと、怯えて彼の胸に縋りつくミチルの手前で急停車する。

 すぐに一人の少女が、内側から勢いよく箱馬車の扉を開いた。


まず目についたのは、癖が強い錆色の頭髪だ。うまく纏まりきらず、みすぼらしくほつれている。控え目な目鼻立ちは雀斑の印象に負けてしまっていて、ひたすら地味であった。 

年頃の娘らしい、露出の少ない落ち着いた臙脂色のドレスは、中肉中背の少女に誂えて作っている筈でサイズはぴったりなのに、ドレスに着られている感じがする。

 ミチルは自分以外の女の子を、本の中でしか知らない。本の中の女性たちは、何かしらの美しい特徴をもっていた。こんなにぱっとしない容姿の女性は、初めて見る。

 ところが、チルチルと目があった瞬間に、少女の印象は光がさし、つぼみが綻んだように一変した。


 湖底にむした苔のような色彩の瞳がエメラルドのように輝く。多くの本の中で少女たちから忌み嫌われていた雀斑でさえ、紅潮した顔の上で星雲のように煌めいた。

 

「チルチル! 良かった、ご無事だったのね!」


 少女はおぼつかない足取りで馬車から降りるが、敷居に足をとられてしまう。チルチルは傾いだ少女の体を抱きとめた。

 呆気にとられたような少女の錆色の旋毛にキスを落とすと、チルチルはくすりと含み笑った。

 

「恥ずかしがり屋の君は、僕の胸に飛び込みたいが為にわざと躓くんじゃないかって、時々思うよ」


 チルチルにからかわれて、少女は耳まで真っ赤になってチルチルの胸を押しやった。


「そっ、そんなはしたないこと、するわけがないでしょう! わたしだって、そんなしょっちゅう躓いたりしないわ。あなたがいつも、わたしを焦らせるからいけないのよ」


 チルチルは悪戯っぽく笑っている。ミチルが見慣れている、品のある笑みとは違って、年相応の少年らしい表情だった。


「そう? 僕が急かさなくても、君はよく躓いていると思うけれど。僕の他にこうして、受け止めてくれる人はいるのかい?」

「わたし、そんな慎みのない女じゃないわ」


 少女は少しむっとしたようだ。つんと顔を背ける仕草に、そこはかとなく甘いものが香るのは、幼いミチルに気のせいではないだろう。

 チルチルの微笑みはそれに輪をかけて、甘くとろけるようなものだった。


「知っている。君はちょっと面白みに欠けるくらい、お堅いレディさ」


 チルチルはそこで一度、言葉を切った。唇を笑みの形にひんまげようとして失敗したまま、発した言葉は不安定に揺れていた。


「そして、とても義理固い。僕みたいな、ばかな悪党のことを放っておけずに、こんな処まで来てしまった」


 ミチルは耳を疑った。チルチルは腰が低く謙虚な好青年だが、自虐的な言葉を口にすることはなかった。少なくとも、ミチルの前では。

 少女は驚いた素振りを見せない。決して美しくはない顔が浮かべたのは、慈母の微笑みだった。


「いくら貴族の娘だからと言って、家を捨ててまで慈善活動に精を出したりしないわよ。わたしがここでこうしているのは、あなたに、それだけの価値を見出したから」


 少女はチルチルの顔を覗き込み、にっこりした。


「あなたって、おかしなひと。普段は鼻もちならない自信家を気取っている癖に、本当はちっとも自信がないんだもの」


 少女はチルチルの肩に手を触れた。それだけのことが、全てを許し優しく背を叩く、母の抱擁だった。

 

わたしは、あなたの全てを受け入れる。


少女は言葉にせずともそう告げていて、チルチルはその愛情に感激していた。チルチルが少女のほつれた髪を優しく耳にかけたとき、ミチルは我慢出来ずに声を上げた。


「お兄さまっ」

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