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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第二話「ミチルの不安な新婚生活」
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嫉妬2

 

「おやめなさい!」


 ミチルは大声でウェンディを制して、飛びのいた。腰が鏡台にぶつかってとまる。化粧道具が床に落ちたようだったが、ミチルは目をやらなかった。主人の号令を待つ犬のようにミチルを見上げるウェンディに、目を釘づけにされていた。

ウェンディの鳶色の双眸は澄んでいる。そこにはミチルの暴虐無人に対する恐れも憤りも、蔑みさえもない。ただミチルの命令に従うだけだと、ウェンディの目が雄弁に物語っている。

 ミチルは恐怖にかられて、引き攣った声で喚いた。


「呆れたわ。お前には自尊心が無いのね。恥を知りなさい!」


 ミチルは癇癪を起したこどものようだった。ウェンディに背を向けて、鏡台に手をつきよろめく体を支える。


平然と立ち上がったウェンディと鏡越しに目が合った。ミチルはかっとして、ウェンディの顔がうつった鏡をひっぱたいた。

 ミチルの平手は、思いがけずに鏡に蜘蛛手の亀裂を入れた。飛び散った鏡の破片で、人差指の先を切ってしまう。ここにきて初めて感じた、鋭い痛み。白い指先を伝う青い液体の流れに、ミチルは怯んだ。


「いたっ……」

「奥様!」


 ミチルの小さな苦鳴を、ウェンディの悲鳴じみた高い声がかき消す。ウェンディはミチルに駆け寄ると、奪うようにミチルの手首を掴んで引き寄せた。ウェンディの剣幕に気圧されて唖然とするミチルの指を、ウェンディが持っていたハンケチーフで拭う。青い血は純白のハンカチーフに吸い込まれた。

 ウェンディはミチルの指先をしばらく凝視していたかと思うと、ほっと表情のこわばりを緩めた。


「幸いなことに傷は浅く、もう塞がりかけております。傷口を強く押えて、しばしお待ちください。念のために手当てをさせて頂きます」


 ウェンディが部屋を出て行った。言われた通りに、ハンカチーフに包んだ人差指を押えていると、ウェンディはほどなくして戻った。


ウェンディが持ってきた箱には、消毒液や脱脂綿、ガーゼ、包帯などが入っている。

 ウェンディは消毒液を含ませたガーゼで傷口を拭った。ミチルの目には傷の痕跡さえ確認できない。ウェンディの目にも、傷は塞がっているように映っただろうが、大事をとったのだろう、ミチルに訊いた。


「痛みますか?」

「いえ……」

「ようございました。念のために、包帯を巻いておきましょう」


 ウェンディは手際よくミチルの指先に包帯を巻いた。余った包帯を挟みで断ち切り、きゅっと結んだら、手当てはおしまいだ。

 箱に医療道具を戻しながら、ウェンディはがっくりと肩を落とした。


「申し訳ございません、奥様。私の不手際で、貴重な青い血を流してしまうなど……万死に値する不覚に御座います」


 ミチルは目を瞠った。そんなに思いつめられたら、かえってミチルが困ってしまう。あわてて頭を振った。


「やめて頂戴。わたくしの不注意で負った傷よ。それに、ちょっと切っただけだわ。……これを、ありがとう」


 ミチルがハンカチーフを差し出すと、ウェンディは目をしばたいて、それを受け取った。しばらくの間、ハンカチーフをじっと見つめてから、ウェンディはうっすらと微笑む。


「ありがとうございます、奥様。私のような者にまで、ご慈悲をお恵み下さるのですね」


 ウェンディの笑顔を見たのは、初めてだった。大きな双眸を細めると、ウェンディは随分と優しく見える。


 ミチルは長椅子に腰かけて、ウェンディがせっせとミチルの不始末の後片付けをするのを眺めていた。太ももの上で組み合わせた両手の指を、落ち着かなく組み換えながら、ぽつりとつぶやく。


貴族ブルー・ブラッドの血は本当に青いのね」


 本の世界では、血は赤いものだと決まっていた。ミチルは己から流れた血を見て初めて、血の色が一色ではないと知ったのである。

 ガラスの破片を掃き集める手をとめて、ウェンディはミチルを見た。


「いいえ、奥様。奥様の青い血は特別です。奥様は神に選ばれしお方なのです。私どもを『銀の悪魔』より御救い下さる、救世主様なのですよ」


 ウェンディはミチルの血を含んだハンカチーフを胸の前で広げた。小さな円を描く青い血を、ウェンディはうっとりと見つめている。


「なんとお美しい青なのでしょう。あなた様は神の御息女。こうしてお仕え出来るなんて、夢のようで……この身に余る光栄にございます」


 ミチルは目をぱちくりさせた。


「あなた、何を言っているの? ついさっき、わたくしにひどい仕打ちを受けたばかりなのに」


 ウェンディがハンカチーフから目を上げる。真っ直ぐに見詰められて、頭が冷えたミチルを後悔の波が飲み込んだ。ミチルは悄然として身を縮こめた。


「ごめんなさい。言いわけだけれど、どうかしていたの。靴にキスをしろなんて、恥知らずはわたくしの方ね」


 ウェンディはミチルの大切なものを、奪おうとしているのかもしれない。しかし、証拠はどこにもない。もしかしたら、ミチルの思い違いかもしれない。顔色を変えてミチルの心配してくれるウェンディの姿を見て、ミチルはそう思い直していた。青い鳥も、ウェンディはミチルに忠誠を誓っていると、言っていた。


(旦那様のお言葉を疑うなんて、いけないわね)


 ウェンディは瞬きもせずにミチルを見つめている。決まりが悪くて見返せずにいると、ウェンディは箒を置いて、ミチルの許へやって来た。ミチルの前に跪きミチルの顔を覗き込むと、首を傾げた。


「ご褒美なら賜りましたが、ひどい仕打ちなど、まったく覚えが御座いません」

「ご褒美……?」


 今度はミチルが首を傾げる番だ。ミチルはついさっきまで、ウェンディの働きに微塵の感謝の念も抱いていなかった。そもそも、ミチルはとらせる褒美など持ちあわせていない。

 ウェンディはミチルの足をそっととった。驚くミチルの足を持ち上げて、踝に頬ずりをする。


「あなた様から頂戴いたしますものは、鞭であろうとお叱りであろうと、至高の美酒に御座いますれば。お許し頂けるのなら、高貴なるおみ足にいつまでも口づけていたい程です……」


 ウェンディが陶然と細めた眼が濡れている。悦楽に感じ入っているかのような、蕩けた表情がミチルの背筋を凍らせた。


ミチルが足掻こうとした矢先に、ウェンディの目が鋭く光る。ウェンディはミチルの足を一まとめに押さえつけてしまった。蒼白になるミチルを見つめたウェンディは、真っ赤に濡れた舌で舌舐めずりをした。

 ミチルは恐慌して、恥も外聞もなく叫んだ。


「はなして! あなた、少しおかしいわ!……ひゃっ!?」


 ウェンディはドレスの裾をたくし上げ、ミチルの足をなめている。ミチルは総毛だった。


「どうして、こんなことをするの!? あなた、やっぱり怒っているのね!? 誰か……いないの、誰か! 助けて!」

 

 ウェンディの舌が足首から脛、膝にまで這いあがって来ると、ミチルに泣きが入る。スカートの裾を太ももの辺りで押さえつけて、頭をぶんぶんと横に振った。


「ジル、お願い助けて! ジル!」

「何事カ」


 ミチルは縋るように声がした方に目を向けた。扉を開けてこちらを覗き込んでいたのは、青い鳥だった。青い鳥が姿を見せると、それだけでミチルは気が緩み、涙が湧いてきた。


「旦那様……」

「旦那様、カ」


 青い鳥は含み笑うと、部屋の敷居をまたいだ。


「私二助けヲ求めてくれたのかト思ったのダが、早合点だったようダな」


 青い鳥は長い脚でミチルの許へやって来ると、ミチルの隣に腰かけた。何食わぬ顔で傍に控えているウェンディを見やる。


「ウェンディ、説明しテ貰おう」

「私が奥様のご気分を害してしまったのです。申し訳ございません、奥様。お騒がせいたしました、旦那様」


 さっきまでの乱心ぶりが悪い冗談だったかのように、ウェンディは落ち着き払っている。怯えて青い鳥に寄り添うミチルの肩を抱き、青い鳥は愉快そうに肩を揺らした。


「君らしくない粗相でハないカ」


 素直に重ねて謝罪するべきところで、ウェンディは眦を吊り上げて主人に言い返した。


「お言葉ですが、旦那様。奥様の御前で平静を保つのは、至難の業に御座います。神の目を真っ直ぐに見返せと言われているようなものです」


 ミチルが何を言っても、ウェンディには態度を改めるつもりはないようだ。青い鳥もウェンディの悪態を咎めることなく彼女から視線を外し、ミチルの髪をいつくしむように撫でた。


「ウェンディの無礼ヲ許してやって欲しイ、我が妻ヨ。お前ノ足元二額付き、博くのハ天使ノ性なのダ。いやはやそれにしてモ、慎み深いウェンディでさえこの有様なのだかラ……間違ってモ、他の男ヲ近づけることハ出来ヌ」


 青い鳥がウェンディに目配せする。その思わせぶりなしぐさひとつで、ミチルの嫉妬心は容易く煮えたぎった。

 ミチルは青い鳥の腕を振りほどくと弾かれたように席を立った。


「そのようなお芝居は、おやめください! 見え見えのお世辞を鵜呑みにして、気分よく祭り上げられる程、わたくしは愚かではありません」


 ミチルは両手に顔を埋めて、青い鳥に背を向けた。

 矢張り無理だ。一度燃え上がった嫉妬心は、そうやすやすと鎮火するものではない。青い鳥が少しでもウェンディと親しくすれば、ミチルは青い鳥を疑ってしまう。


(いけない。こんな心じゃ、幸せになんてなれやしない)


 ミチルはすぐにでも泣きだしたいと思った。チルチルの声がする。


(可愛そうなミチル。無理をしなくていいんだよ。表の世界は君が幸せになるには残酷すぎる。僕のところへおいで。大切に守ってあげる。君だけを愛しているよ)


 このチルチルなら、そうしてくれるだろう。あのチルチルと違って、このチルチルはミチルだけのものなのだから。

 しかし、彼に縋るのは、なんて虚しいことだろう。

 結局、ミチルはさめざめと泣きながら、青い鳥に懇願した。


「お願いです、ひとりにして……」


 すぐに、青い鳥が動く気配があった。青い鳥はミチルを慰めようとはしなかった。それを望まないミチルの心情をくみ取ってくれたのかもしれないが、これは好意的な見方だ。ただ単に、面倒な女だと呆れてしまっているとも考えられる。

 とにかく、青い鳥はミチルの望むとおりにした。


『良かろウ。今日はひとり、ゆるりと心をやすめなさイ。行くぞ、ウェンディ』

「かしこまりました、旦那様。奥様、ご夕食はいつもの時間にお持ちいたします。奥様のお邪魔は致しませんので、どうかご安心ください。失礼いたします」


 青い鳥とウェンディが去った部屋で、ミチルはひとり泣き崩れた。


(お兄さま、ミチルにはわかりません。どうしたら、わたくしだけを愛してくださるのですか? 壊れてしまう程に、わたくしは愛されることだけを求めているのに)



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