嫉妬1
***
夕時の決まった時間。控え目なノックに応えると、ウェンディが静かに入室してくる。夫婦水入らずの晩餐会にむけて、ミチルを華やかに飾り立てる為だ。
ミチルの真っ赤な目に気がつかない筈はないのに、ウェンディは言及しなかった。ミチルの前では気付かないふりをして、あとでこっそりと、青い鳥に報告するのだろう。親密な空気に包まれた、二人きりの密室で。
ウェンディはいつも通り、手際良く働いている。おつに澄ました態度が、ミチルの泣きはらした目許をひりひりと焼くようだった。
コルセットとクリノリンの着つけ直しを済ませると、ウェンディが運んできたレモン色のローブデコルテに袖を通される。煌びやかなレースやリボン、ビーズによる装飾はなく、シンプルなつくりのドレスである。バルーン型のシルエットと花弁のようなペプラム袖と相まって、花の精が身に纏うドレスのよう。ウェンディはジルが長い時間をかけてやっと掴んだミチルの少女趣味を、この短期間で正しく理解している。有能さを見せつけられるようで、厭味ったらしいったらない。ミチルの髪を丁寧に結わうウェンディを鼻もちならぬ女だと思い、ミチルは鏡越しに睨んだ。
ウェンディは器用に櫛を使い、ミチルの髪を結いあげている。伏せたまつ毛は長く色濃い。はっきりした黒い線に縁どられた彫の深い顔立ちに、赤くぽってりとした艶やかな唇が大輪の薔薇のように咲いている。美しくも妖しい美貌だ。女性らしい柔らかな曲線で構成された魅惑のシルエットは、妻をもつ男性であっても、目で追わずにはいられないだろう。
少し目線を下すと、妖艶な美女に長いプラチナブロンドを結われる少女の姿がうつっている。抜けるように白い肌も、透き通るように青い目も、桃色の唇も、顔の造作も悪くは無い筈なのに、石のように硬い醜い左目のせいで全てが台無しだ。大きく開かれた胸元には、ウェンディが貧弱な体から巧みに作り出した膨らみが覗くが、有能なメイドの手腕をもってしても、わざとらしさは拭えない。
(わたくしはウェンディに、何もかも劣っている)
ミチルの心を劣等感が蝕んでいく。それはジルであっても拭い去ることは出来ない程、ミチルの心に深く巣食っている病魔だった。それは瞬く間にミチルの心を浸食し、白い顔に恐ろしい影を落とした。
(ウェンディ、お前もあの女と同じなの? 恵まれた女が、わたくしから愛を奪おうと言うの? わたくしには愛しかないのよ。何もかも持っているお前がわたくしの全てを奪うなんて、絶対に許さないわ)
「わたくしの夫であらせられるお方の真名を、お前は知っている?」
かたく引き結んでいたミチルの唇が解かれたことに、ウェンディはほんのわずかに目を見開いたようだった。
ミチルはレースのグローブを嵌めた手を口元に寄せて、品良く笑った。
「『青い鳥』と言うのは、異名なのでしょう? 白獅子翁、ノイルフェイツ。血塗れ狼、フォウルデア。蛇女、ケセンゲレン。ならば、青い鳥の真名はなんとおっしゃるのかしら?」
ウェンディは今度こそはっきりと、目を見開いた。昼間の青い鳥とウェンディの会話を、ミチルが立ち聞きしていることに、今の今まで気が付いていなかったように見受けられる。ミチルは頬に手を添えた方に少し首を傾げ、わざとらしく嘆いて見せる。
「わたくしは、知らされていないのよ。おかしいでしょう、わたくしはあのお方の妻なのに」
「旦那様のお名前は、ディーブベル様と仰います」
ウェンディは打てば響くように答える。己の口から主人の名を告げることを、ウェンディは越権行為だと捉えていないらしい。ミチルは目を丸くして言った。
「驚いたわ。妻が知らぬことを、召使のお前がなぜ知っているの」
ウェンディは顔色ひとつ変えなかったが、彼女の沈黙が答えに窮したことを白状している。ミチルは俯き加減に暗く笑って、続けた。
「ねぇ、ウェンディ? わたくしは、あのお方をなんとお呼びしたらいいのかしら。妻であるわたくしが、召使のお前と同じように夫を呼ぶのは、考えてみればおかしなお話よね」
「旦那様は、親しいお方にはディルと呼ばれておられます」
「そう。では、わたくしもディル様と呼ばせて頂きましょう」
「是非、そうなさいませ。旦那様もお喜びになります」
ウェンディは淡々と受け答えする。ミチルはにわかに苛立った。このふてぶてしい泥棒猫が纏う静謐さを、ずたずたに引き裂いてやりたい。そうする権利が、妻であるミチルにはあるはずだ。無断で貴人の領地に踏み入った狼藉者は、殺されても文句は言えないのだから。
「察しの良いお前のことだもの、もう気が付いているでしょうけれど、わたくしね。昼間にお部屋を出たのよ」
ウェンディが小賢しいことを言い出す前に、ミチルはたたみかけた。
「お前はディル様に、たいそう気に入られているようね。お前が綺麗で賢いから? だからって、思いあがっていい理由にはならないわ。主人の寵愛があれば、無礼な態度をとっても生意気な口を利いても、許されると思っているのでしょう? ああ、事実、許されていたのだったわね。でも、わたくしは許しません」
ミチルは肩越しに振り返り、ウェンディを冷ややかに瞥見する。ウェンディはさっと手を引くと、深く礼をした。
「申し訳ございません、奥様」
「謝れば済むと思っているの? お前はちっとも、改心するつもりがないようね。心にもない謝罪はしないで頂戴。不愉快だわ」
ミチルはそう言い捨てると、席を立った。体ごとウェンディに向き直る。彼女のほっそりとした項を見下す。嫉妬が憎悪の炎を燃やした。だが、あの女の細頸を見たときのような、骨の髄までしゃぶりつくしてやりたいという凶暴な衝動は、不思議と湧き上がらなかった。
ミチルは深々と頭を下げたウェンディが、こっそりと嘲笑を漏らしているような気がした。世間知らずのばかな小娘だと嘲る声は、はたして本当に、被害妄想からくる幻聴だろうか。ウェンディがしらを切り通せば、ミチルには追求する術がない。ただヒステリックに喚き散らすだけだ。
ウェンディの鼻を明かすには、どうしたら良いのか。妙案は浮かばず、ミチルは吹き上げる憎悪に押し流されるしかなかった。
「ひょっとすると、お前もわたくしの夫をディル様と呼ぶのかしら?」
「とんでもないことで御座います、奥様」
「あら、そう? 寝台の上にまで主従関係を持ち込むのがお二人の流儀なの? 変わっているのね」
ミチルは、思いつく限り最も下劣な言葉を投げかけた。ミチル自身が正しく意味を理解せずに発した侮辱の言葉を、ウェンディが聞き咎めた。硬い声音でミチルを諌める。
「おやめください、奥様。そのような御振る舞いは、奥様ご自身を貶めます」
「主人に指図をするの? 思いあがりも甚だしいわ」
ミチルが顔を顰めると、ウェンディは己の不敬にはっとして、居住まいを正した。
「申し訳ございません、奥様」
「いいこと、お前の意見など聞きたくないのよ。お前はわたくしの求めに応じてのみ、口を利くことを許される。いいわね」
「はい、奥様」
ウェンディの淡然とした態度は変わらないが、ミチルはウェンディを追い詰めたつもりになっていた。ミチルは鏡台に置かれた化粧道具を手にとり弄びつつ、鏡にうつりこむ、美しい背筋を曲げたウェンディの姿を小気味よく感じていた。
「お前は分不相応にも、わたくしの夫を恋慕っているわね?」
「とんでもないことです、奥様」
「本当かしら?」
「神に誓って」
ミチルはせせら笑った。ウェンディに、もっと惨めな思いをさせてやりたい。ミチルがしたよりも、惨めな思いを。
「神になど誓わなくて結構よ。わたくしに誓いなさい、跪いて。そうね、わたくしの靴にキスをすることが出来たら、信じてあげてもよろしくてよ」
ウェンディを困らせたくて、無理難題をふっかけただけだった。いくら主人の命令とはいえ、そんな屈辱に素直に甘んじる人間など、いないと思っていたから。
ところが、ウェンディには躊躇いがなかった。
「はい、奥様」
えっ、とミチルが振り返ると、ウェンディはすぐそこに跪いていた。床に四つん這いになり、犬の姿勢をとっている。ウェンディは肘を曲げ、首を伸ばし、ミチルの靴のつま先に瑞々しい唇を寄せようとした。




