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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第二話「ミチルの不安な新婚生活」
12/60

冬の到来2

 金の鍵束を受け取ったミチルは、首を傾げて青い鳥を見上げた。


「これは、どちらの鍵なのですか?」

「西端の渡り廊下を渡った先にある、西の別棟とその部屋の鍵ダ」


 青い鳥は鍵束をぼんやりと見ているミチルの両手を、三本指の大きな手で包み込んだ。


「私だけヲ愛する決心ガついたラ、この鍵束デ扉ヲ開き、西ノ別棟ヲ訪ねなさい」

 

 ミチルは目を丸くした。青い鳥は、ミチルが夫を愛さない不実な女であると疑っているのだろうか。

 そんなことはない。「わたくしは、あなただけの妻です」と、即座に反論しなければならなかった。それなのに、チルチルはミチルの唇を塞いだ。

(君がこの化け物だけを愛している? 嘘をついてはいけないよ、ミチル。誓いの言葉は一度唇から放してしまうと、取り返しのつかない「契り」になってしまうからね)


 ミチルを長椅子に残して、青い鳥は食後の後片付けを始めた。ワゴンを押して部屋を辞する際に、青い鳥は思い出したように言った。


「お前ノ世話ヲ任せてきた召使ノことだガ」

「ジルが、どうかなさいました?」

「彼ハもう随分ト長いこと、休みなく働いただロウ。我々ノ結婚ヲ機に、暇ヲ出すこと二しタ。明日からお前の身ノ回りノことハ、後任ノ召使二引き継がせル」


「それでは、よい夢を」と挨拶をして、青い鳥は去った。

 

ミチルは、茫然自失としていた。時告げの鐘が鳴り響いて、びくりと肩を跳ね上げる。ミチルは弾かれたように立ち上がり、床に崩れ落ちた。


「……ジルが、いなくなった……? そんな……そんなことって……」


ミチルの常春の日々に、思いがけない冬が到来していた。




***


 ジルは本当に、ミチルの前から姿を消してしまった。

 

ジルの後任は、妙齢のメイドだった。ジルよりは年下でミチルよりは年上だろう。長い手足と美しいシルエットをもつ、長身の美女である。

ひっつめたこしの強い黒髪、謎めいた鳶色の目、桃色と橙色を混ぜて薄めたような艶のある肌色が、お仕着せの上に異国情緒のヴェールを重ねていた。

メイドは黒く縁取ったように見える力強い釣り目を伏せて、如歳なく挨拶をした。


「奥様のお世話を仰せつかりました、ウェンディと申します。何なりとお申し付けくださいませ」


 ウェンディは切り詰めて言うと、素早く一礼した。眼光は鳶のように鋭いが、ピーヒョロロロ、という陽気な囀りとは縁遠いだろう。


 初対面の印象に違わず、ウェンディは寡黙で有能なメイドだった。ウェンディは視線や身動ぎひとつで、ミチルの要望をくみ取る。ミチルがぼんやりと座っているだけで、全てが願う前に叶えられていた。

ウェンディはお喋りに夢中になってミチルの世話をおろそかにしたりしないし、ミチルの趣味にとやかく口出ししたり、大切な本に手出ししたりしない。

 召使としては、ジルよりもずっと優秀なのだろう。ウェンディは存在自体が便利な魔法のようだ。

 

 ところが、ウェンディの有能さは皮肉にも、ミチルの喪失感を肥大させた。


(ジルが恋しい。お喋りで、おせっかいなところがあって、決して完璧ではない。けれど思いやりのある、わたくしの執事)


 ミチルは意気消沈していた。

ウェンディは流れるように業務を淡々とこなしているだけに見えたが、聡い彼女がミチルの異変に気がつかない筈もなかった。その晩、夕食の席で青い鳥がミチルに問いかけた。


「どうした」

「え?」


 青い鳥はウェンディが向こう側に控えている扉を嘴で指示した。ウェンディは、夫婦の食事の給仕を任されている。青い鳥はウェンディを特別に気に入っているようだった。青い鳥が言う。


「彼女ハ心配している。昼の間、お前ハ迷子のように心細そうで、涙ぐんでいることすラあるとか」


 ミチルは蚊の鳴くような声で「いいえ」と言った。「何も御座いません」


 青い鳥はミチルの見え透いた強がりを真に受けなかった。


「ウェンディの働き二不満ガあるのなラ、言いなさい。彼女は信頼するに足る者で替えはきかぬガ、至らぬ点ハすぐ二改めさせる」

「ウェンディはよく尽くしてくれますわ」


 ミチルは素早く言った。臍の前で落ち着きなく手遊びをする。白魚のようだとジルが褒めてくれた、何の苦労も知らない手を見下ろして、ミチルは唇を噛んだ。


(あなたにとって、ウェンディが最も信頼に足るメイドであるように、わたくしにとって最も信頼に足る執事は、ジルなのです。どれ程有能な者でも、彼のかわりは務まらないわ)


 ジルが居なくなってから、ミチルの薔薇色の日々は急激に色褪せた。幸せの絶頂から突き落とされてしまった。誕生日七日前の土壇場での急転直下の事態。ミチル本人にも、何処まで落ちるのか見当がつかない。


(可愛そうなミチル。間違った選択をしたね。判断を誤ったね、ミチル)


 チルチルが息をふきかえしたように、そう囁いている。ミチルは頷いてしまいそうになるのを、今のところは、危ういところで堪えていた。

 

 ジルを無くしたことは痛手だったが、不幸に陥るには早計だ。青い鳥は相変わらず、良き夫であった。ミチルを深く愛してくれている。

 青い鳥は元気のないミチルを、心から心配してくれているように思われた。青い鳥はミチルを励まそうとして言った。

 

「お前は与り知らヌ事だガ、ウェンディはジルの影となり、お前二良く尽くした。実質、こノ屋敷ノ万事ヲ取り仕切っているのハ彼女なのダ。彼女ハお前二忠誠ヲ誓っている。安心しテ頼りなさい」


 ミチルは曖昧に微笑んだ。青い鳥がウェンディに全幅の信頼を寄せる素振りを見せるたびに、ミチルの腹の底で澱がふつふつと煮える。悪寒がしていた。

 青い鳥は肉を嚥下して、何気なく言った。


「もう屋敷ハ見て回ったか? 塞ぎこんでいる時ハ、散歩ヲするトよい気分転換二なル」


 絶妙のタイミングで入室したウェンディが、水差しを手に持ち、青い鳥とミチルのグラスを冷たい水で満たす。自慢の使用人の働きを満足そうに眺める青い鳥から、ミチルは目を背けた。グラスを満たしていく揺れる水面に、ミチルの顔が歪んでうつりこんでいた。


(このお方の妻はわたくしよ。このお方を最も喜ばせるのは、わたくしでなければいけないわ)


 唇を引き結んだ女の蒼白な顔は、ぞっとする程に気味が悪いものとしてミチルの右目にうつった。


***


 誕生日六日前の朝。ミチルはウェンディの手で身支度を整え、ウェンディが運んできた朝食をとった。ウェンディの働きには、非の打ちどころがない。ドレスの趣味でさえ、ジルの見立てに負けず劣らず、ミチルの好みに合っていた。

ウェンディはジルのような無駄口を一切叩かない。ミチルも、ウェンディと話したいことなど無いから、ちょうど良かった。

 

ウェンディは今日も、恭しくも無駄をそぎ落とした所作で礼を尽くして去った。いつもなら本を読んだり、ぼんやりしたりして時間をつぶすミチルだが、今日は違った。


青い鳥に渡された銀の鍵の束を手に取り、扉の前に立つ。たくさんある鍵から、鍵穴にぴたりと合う鍵を見つけ出した。

小一時間、その場で立ち尽くしていた。時告げの鐘が腹立たし気に鳴り響く。それが聞いたこともない青い鳥の怒号に聞こえて、ミチルは震える手で鍵を回した。


がちゃり。解錠を告げる音が、確かな手ごたえに伴った。


ミチルは電気を流されたみたいに、ぱっと手をひっこめると、身をひるがえした。絹のドレスを着ているのに一切の配慮なく、寝台に倒れこむ。


ミチルは、青い鳥の歓心を買いたかった。しかし、その日はそれが精一杯だった。


 ウェンディは、扉の鍵が解錠されていることに気がついても何も言わなかった。鍵を鍵穴から抜き取り化粧台の上に戻すと、粛々と昼食の用意をした。そして、出ていくときには施錠しなかった。

ウェンディの行動は、ミチルが振り絞ったなけなしの勇気を称えるようにも、嘲笑するようにも、ミチルには思えた。

 

 夕食の席で、青い鳥の声は心なしか弾んでいた。


「部屋の鍵ヲ開けたらしいナ」


ミチルは、グラスに水を注いでいるウェンディを見つめた。ウェンディは何も言わなかったが、青い鳥には鍵のことを報告していたらしい。鍵だけではなく、ミチルの様子を逐一報告しているのだろう。ジルもそうしていたのだろうが、どうしてだろう。ウェンディが狡賢いネズミに思えて、ミチルの心は不穏にざわめいた。

 

青い鳥は、そんな気配を察することなく、丸い目を呑気に細めている。


「部屋ノ外にハ出たのカ」


 こどものように、素直な期待に満ちた両の目に見つめられて、ミチルは面目なく目を伏せた。


「……いいえ。出られませんでした」


 青い鳥は、すぐに言葉を紡がなかった。小さく息をつき


「そうカ」

 

 と呟いて、話題をかえた。先日、ミチルに贈った本の感想を求めた。

 

青い鳥の気遣いに感謝するより、青い鳥を落胆させてしまったことに、ミチルは強い衝撃を受けていた。

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