冬の到来1
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誕生日九日前の朝、部屋にやって来たジルに、ミチルは青い鳥との顔合わせについて報告した。青い鳥は優しく優雅な紳士で、うまくやっていけそうだと言うと、ジルは実に嬉しそうに笑うのであった。
「それはようございましたね」
青い鳥に向けられるミチルの好意を、ジルは我が身に注がれるように喜んだ。ジルにとって青い鳥は、主人の域を超えた存在なのかもしれない。
ミチルにとってジルは、燦然と輝き夜の帳を寄せ付けない太陽だった。青い鳥の妻となってからは、無間の太陽が沈むようになった。ジルと過ごす時間が減ることに寂しさを感じたが、ジルが去ると、入れかわりに青い鳥がやって来る。青い鳥はジルと違っておしゃべりではないが、彼の沈黙は優しい。青い鳥は、ほんのりと輝く月だ。ミチルはすぐにこの生活に順応した。
青い鳥はジルに負けないくらい、ミチルのことをよく知っていた。青い鳥の贈り物はミチルを喜ばせ、落胆させることは決してなかった。ミチルに強請られれば、好かない物語すら贈ってくれる。
青い鳥が人間の綴る物語を好まない理由は、彼の宗教にある。彼ら天使の宗教では、天使は神の足元にあり、人間の頭上にあるものとされている。天使の念頭にはその思想に基づいた根強い選民意識があった。天使は壁に囲まれた国をつくり、人間を招き入れ庇護下に置いたのも、壁外の人間に対する奉仕も、目下のものへの施しの一環らしい。
物語の世界では、作者である人間が全能の神になる。天使たちの考えでは、どんな容であっても、人間が創造という神の領域を侵すことは、許し難い背信にあたるのだ。実際、使徒座十二席では人間による執筆活動は制限されていた。
けれど、青い鳥はミチルにとても優しくしてくれる。毎晩欠かさず、夕食と贈り物を携えやって来て、夕食をともにした。食後は長椅子に隣あって腰かける。ミチルは青い鳥の肩に頭を預けて、とりとめのない話をした。青い鳥はミチルの話に静かに耳を傾ける。ミチルがうとうとしかけると、いつの間にか寝支度を整え、ミチルを寝台に横たえた。そうして、ミチルが眠りにつくまで髪を撫でてくれる。
三本指の硬い手指は、ジルと比べようもないほどに不器用だったけれど、ミチルは安心しきって瞼を下すことが出来た。ガーゼ越しに左目に触れられても平気だったのは、嬉しい驚きだった。
青い鳥はこれまでジルが夜にしていたことを、そっくりそのまま引き継ぐだけではなく、彼流の工夫を施していた。
ミチルと青い鳥が夫婦となって、二夜の眠りが過ぎて行った。18歳の誕生日は八日後。ジルが言った「結ばれた先のこと」を、青い鳥はミチルに一向に教えようとはしなかった。
不思議に思ったミチルが訊ねると、青い鳥は含み笑い、ミチルの頬を撫でる。それから、歌うように言った。
「私ノ青キ宝。私ハお前ノ全てを欲する。この柔らかな仮初の繭も、内に秘めた美しいお前自身モ。お前ト出会ったあの日以来、私ハ待ち続けてきた。今しばらくハ待とう」
結ばれるのは、まだ先のことになりそうである。それでも、幸せな結婚をしたのは事実であるから、チルチルとの約束は果たされるだろう。
新婚生活はこれまでの凪いだ海のような生活より、さらに満ち足りていた。ミチルは掛け値なしに幸福だった。
ある晩のこと。不器用にフォークとナイフを使いながら、青い鳥は唐突に言った。
「外二出たくないカ」
「いいえ」
ミチルは間髪いれずに答えた。心臓が薄い胸の内で臆病なウサギのように跳ねまわっている。内心の動揺をおくびにも出さずに、ミチルははたして笑えていただろうか。青い鳥が手にしたナイフが肉を断ち切り、皿に当たってとまった。青い鳥は、訝しげにミチルに訊いた。
「何故だ」
「必要が御座いませんわ。わたくしは、とても幸せですもの。何不自由ない暮らしを送らせて頂いております」
「何不自由ない。だが、真の自由もない。お前ハこの生活ヲ、籠ノ鳥のようだと思ったことハ無いだろうカ」
「御座いますわ」
ミチルは、ナプキンで唇についた肉汁を拭うと、にっこり微笑んだ。震えを無理に抑え込もうとすると、舌先がもつれそうになる。ミチルは怯えを気取られないように、慎ましさを装って目を伏せた。ドレスを握りしめた指先が、気ぜわしくドレスの裾を揺らす。裾を縁どるレースのように、火が点いていている気がしてならなかった。焦げ臭い臭いが、記憶の底から立ち上って来る。
ミチルは追憶を振り切るように頭を振った。
「籠の鳥は、追われることも、傷つけられることも、飢えることもない。鳥を必要としてくれるお方が愛でてくださいます。鳥籠の鳥の生活は、実に恵まれておりますわ」
青い鳥は沈黙している。彼の輝く青い羽根は磨き上げられた鏡のように、ランプの灯を映している。ミチルは不安を押し殺しきれずに、ついにおろおろと取り乱してしまった。
「あの、その、旦那様。もしや、わたくしは……お外に出されるのでしょうか。何かお気に障る事をしたのでしょうか? あの、その、あの……申し訳ございません、わたくしは不束で。悪いところがあるのなら、必ず直します……ですからどうか……お許しを……」
「そうでハない」
青い鳥は苦笑してミチルを宥めた。青い鳥は席を立つとミチルの背後に回り込み、肩を抱く。かちかちと耳障りな音が止んだ。ミチルが手にした銀器が、皿の縁に当たる音だった。ミチルは瘧を起こしたように震えていたのだった。
青い鳥はミチルの手から銀器を取り上げ、テーブルに置いた。ミチルを抱きかかえるようにして席を立たせ、長椅子に腰かけさせる。
ミチルの隣に腰かけた青い鳥が、ミチルの肩を抱いた。嘴や鉤爪でミチルを傷つけないように細心の注意を払って、青い鳥はミチルを懐に抱きこんだ。
「外ガ恐ろしいカ」
ミチルは消え切りそうな声ではい、と答える。
「恐ろしいです。お外は死の世界ですもの。わたくしの綺麗なお部屋では決して起こらない、怖いことが起こります。怖いものが来るのです」
ミチルは、喘ぐように息を吸い込んだ。髪が、肉が、焼ける臭いがする。熱せられた空気が胸を内側から焼いている。ミチルは悲鳴をあげた。
「近づいてくるわ、馬蹄の音が、車輪の回る音が……! あの恐ろしい女が、わたくしから全てを奪ってしまう……!」
青い鳥は、身をよじり泣き喚くミチルを胸に抱いて放さなかった。ミチルは幼子のようにしゃくり上げた。
「お願いです、わたくしを何処にもやらないで! あなたは何処にもいかないで!」
「そのつもりダ」
「ずっと傍にいて、片時もはなれずに、わたくしだけを愛して!」
「愛しているとも、お前だけヲ」
「嫌なの、わたくしだけを愛してくれなければ、嫌なの! 二番やそれ以下なんて絶対に嫌!」
「お前ノ言う通りダ」
青い鳥の声の、宥める調子が微妙に変わった。反射的に顔を上げると、青い鳥は二つの凍える月の双眸でミチルを見つめている。ミチルははっと我に返った。逃れようと身をよじるものの、青い鳥の長い手羽に絡めとられて抜け出せない。ミチルは仕方なく、青い鳥の胸に額をつけて恥じ入った。
「ごめんなさい……わたくしったら、みっともなく取り乱して」
青い鳥はミチルに頬を寄せた。不思議な声でミチルの頭の中に話しかける。
『お前は我が最愛の宝。私はこの世界で、神とお前だけが愛しい。この胸が焼け焦げるような想いが報われるだけ、私はお前に愛されたいのだ。私の言っていることがわかるな』
「……はい、あなた」
ミチルが綾取られるようにこくりと頷くと、青い鳥はミチルを放した。大きな体躯を青い羽毛に埋めて、やんちゃを叱られた子供のように小さくなった。
「軽率だった。お前ハ幼い頃ヨリ外に怯え、この部屋ヲ出たがらなかったナ。そのことヲ失念していた」
青い鳥は身軽に居上がると、尾羽を引き摺ってシェルフの前に移動した。三本の指のうち、二番目に長い指の指先が本の背表紙を次々に横切っていく。青い鳥は物憂いため息をついた。
「私は唯、この狭い部屋に閉じこもっていてハ息が詰まってしまうだろうト、お前の身を案じただけダ。この私ガお前を手放すなど、あり得ないこと」
「そうでしたの……」
ミチルはほっと胸をなでおろし、同時に胸を痛めた。
(わたくしのせいで旦那様が愁えてらっしゃるわ。ああ、なんてことなの。明日、ジルに相談してみましょう)
青い鳥がミチルに向き直る。みっしりと生え揃った羽毛をかきわけて、銀色の鍵束を取り出すと、ミチルの鼻先につり下げた。反射的に見入るミチルに、青い鳥が言った。
「この銀の鍵束ヲ渡しておく。我が屋敷ノすべてノ部屋の鍵ダ。自由二見て回るト良い。屋敷内ならバ、怖くハ無かろう」
ミチルは、少し逡巡した。この美しい部屋を出るには、途方もない勇気がいる。けれど、青い鳥の心遣いを無碍にしたくなかった。
ミチルは青い鳥に与えられるばかりで、何ひとつ与えていない。ここで与えられるものすら拒んだら、いくら温容な青い鳥でも気分を害する。ミチルは鍵束を受け取り、ぎこちなく微笑んだ。
青い鳥は満足そうに嘴を打ち鳴らすと、鍵束をもう一つ取り出した。
「こノ金ノ鍵束モ渡しておこう」