悪夢は車輪を回して
***
その晩、ミチルは悪夢を見た。
ミチルは、美しい部屋の長椅子に腰かけていた。背もたれに寄りかかっている。美しい姿勢を保たなければと、朦朧とした頭の片隅で考えたが、体が言うことをきかなかった。
美しい部屋には、ここ最近、誰も寄りつかない。頻繁にやって来ていた世話役すら、姿を見せないのだ。ミチルは、もう長いこと、なにも食べていない。お腹がぺこぺこだった。
銀の格子の向こう側にとりとめのない視線を遊ばせながら、ミチルは、身の回りの世話をしてくれる使用人ではなく、チルチルを待っていた。
(お兄さまは、いつになったら来て下さるのかしら。ずっと一緒だって、お約束して下さったのに)
チルチルのことを思うと、胸がいっぱいになって、空腹が紛れる。ミチルは、チルチルのことばかり考えていた。
(お兄さまにお会いしたい。会いたいの。いらして、お兄さま)
そのとき、固く閉ざされた扉がきしみながら開かれた。漂う香りをきいて、ミチルの目に生気が戻る。
(お兄さまの香りだわ!)
ミチルは、いそいそと身を起こした。血が足りずに目が眩んだが、気にも留めない。そんなことより、薄汚れて皺くちゃになったドレスや、ほつれた髪が気になっていた。
チルチルが、近づいてくる。いつもより歩調が早い。ミチルは急いで髪を撫でつけ、ドレスの皺を伸ばし、姿勢を正した。憔悴しきった顔で、出来る限り可愛らしく微笑む。
「ようこそいらっしゃい、チルチルお兄さま」
眩いばかりの笑顔を待っていたミチルに、チルチルは笑顔を返してくれなかった。チルチルは格子にとびついて、がちゃがちゃと何かをやっている。ミチルは、小首を傾げた。
「お兄さま? なにをなさっているの?」
「いい子だ。おとなしくして待っておいで」
チルチルは、手元から目を上げない。邪魔をしてはいけないのだと悟ったミチルは、素直に頷いた。
「はい、お兄さま」
あっけなく口を開いた蝶番が、がしゃんと石畳みに落ちる。格子戸が、軋みながら開かれた。
ミチルは、目を見張る。目を覚ましている時に、格子戸が開くのは初めてのことだ。ミチルは、この部屋が開かれるものだと、認識していなかった。
美しい部屋に、外へ続く穴がぽっかりと開いた。何が待ち構えているかわからない、暗い穴から、チルチルが手を差し伸べている。
「……さぁ、ミチル。出ておいで」
ミチルは、花の蜜にひかれるミツバチのように、ふらふらと引き寄せられた。埃を蹴散らし、チルチルの胸に飛び込む。邪魔な格子はない。チルチルの腕に抱かれて、ミチルは酩酊したようだった。
(いい匂い。とても、いい匂い)
チルチルの首筋に鼻を擦りつける。薄い肌の下で、血脈がどくんどくんと、力強く脈打っている。
いつもは優しく、髪をといてくれるチルチルは、強引にミチルを引き離した。呆気にとられてチルチルを見上げたミチルは、気がついた。
チルチルが、険しい顔をしている。彼にこんな表情があったなんて。ミチルにとっては大きな衝撃だった。
チルチルは、ミチルの手を引いて、歩きだす。引き摺られるように歩く廊下には、冷気が這っている。黴の臭いがつんと鼻をさす。
ミチルは、足をせっせと動かしながら、チルチルの手を両手で掴む。問いかけた。
「お兄さま、わたくしは、もう完璧な淑女になれたのですか?」
チルチルは、ミチルを見ない。廊下の突き当たりを、焦げ付くほどに睨んでいる。
「淑女修業の続きは、別の場所でしよう。今は一刻も早く、ここを出るんだよ」
「ご主人さまは、お許しになったのですか?」
「あのひとのことは、忘れて。もう君は、ドールハウスのお人形じゃない。これからは、ひとりの女の子として、僕らとお外の世界で生きていくんだ」
ミチルは、驚いて足をとめた。ミチルを少し引き摺って、チルチルも足をとめる。
チルチルは、ミチルの前に跪いた。青ざめた顔で、チルチルはミチルに訊ねた。
「怖いかい?」
ミチルは、首を横に振った。チルチルこそ、怖がっているみたいに見える。チルチルを安心させたくって、ミチルは、快活に言った。
「いいえ、お兄さま。ミチルは、お兄さまがご一緒して下さるなら、何も怖くありません」
チルチルは、ぎこちなくも、この日初めての笑顔を見せた。ミチルの頭を撫でる。
「良い子だ。何も心配いらないよ。たった今から、僕は君のお父さまになる。君を必ず、守るからね」
明らかな子供扱いが不満だった。ミチルは、チルチルの婚約者なのだ。ミチルは、ふるふると頭を振った。
「お父さまなんて、いりません。ミチルには、お兄さまがいてくださればいいのです」
「君には、必要だよ。まだ、小さいもの」
ぷうっと頬を膨らませて、ミチルは拗ねた。何かがおかしいと、幼いながらに思っていた。
チルチルは苦笑すると、ミチルの手をひいてまた歩き出した。さっきのように引き摺ることはなく、ミチルの小さな歩幅を思いやってくれている。少し安心して、ミチルは疑問をぶつけた。
「何処へ行くのですか?」
「僕が良いと言うまで、黙っていて」
チルチルがぴしゃりと言う。ミチルは
「はい、お兄さま」
と答えて、いけない、と口を塞いだ。罪のないいとけなさが、チルチルを少し笑わせた。
「いい子だ、おいで」
チルチルは上着を脱ぐと、ミチルを抱きあげた。ミチルの頭から上着を被せて、すっぽりと覆い隠してしまって、石階段を駆けのぼる。
重く軋る扉を開く。潜り抜けると、空気が変わった。乾いた風がふいている。饐えた空気は、火の臭いがした。
離れた場所から、押し殺した声がかけられる。見知らぬ男の声だった。
「おぼっちゃま、こちらです。お早く!」
チルチルが走る。ミチルは、チルチルの首にしっかりと縋りついていた。
(ここは、お外なのかしら?)
チルチルは、走ったり急に止まったり、上ったり下りたりを繰り返した。胸が悪くなるようなひどい臭いの場所も駆け抜けた。時々、水が流れる音がしていた。
(お兄さまは、いったいどこに向かっていらっしゃるの?)
しばらく走り続けて、チルチルはやっととまった。ミチルは、チルチルの弾む胸にぴったりと寄り添っている。
やがて、息を切らしながら、チルチルが言った。
「どうやら、うまくいったようだな」
「まだ油断はできません」
さっき、チルチルを呼んだ見知らぬ男の声が言った。チルチルが、苦々しく頷く。
「そんなこと、言われなくても、わかっている。……ミチル、苦しかっただろう。もう出て来てもいいよ」
ミチルは、上着をかきわけると、新芽のように顔を出した。チルチルの微笑みには、さっきよりも、ゆとりがある。呼応するように笑み崩れるミチルの背後で、見知らぬ男が息をのんだ。
「それが……旦那様の」
「僕の妹だ」
振りかえようとしたミチルの顔を肩口に埋めて、チルチルが跳ね付けるように言った。見知らぬ男は
「左様でございましたな」
と言い、口を噤んだ。チルチルは、ミチルの髪を撫でながら、抑揚をつけずに言った。
「お前は、もう行ってくれ」
「おぼっちゃま」
見知らぬ男は、驚きを隠しきれない。チルチルは、重ねて言った。
「これ以上、付き合わせられない」
「ですが」
「行ってくれ、アロンソ。……今まで、ありがとう」
見知らぬ男は、言葉に詰まった。しばし、言うべき言葉を暗中模索しているような沈黙がある。やがて、男は観念したように言った。
「どうか、お元気で」
足音が遠ざかり、めらめらと炎が燃える音より小さくなる。チルチルは、くすくすと含み笑って言った。
「彼は驚いただろうな。僕は傲慢な鼻もちならない奴で、彼にお礼を言ったことなんて、一度もなかったから」
チルチルは、にっと唇の端を釣りあげた。初めて見る、崩れた感じのする笑顔は、透き通るように晴れやかだった。
「これから、僕らを助けてくれる人と、ここで落ち合う約束をしている。怖がらなくていいんだよ。素敵なひとだからね。君のいいお手本になってくれるだろう」
小さなミチルは、訳もわからず首を捻っている。
愚かな小さなミチルを見下ろして、ミチルは叫んでいた。
(いやよ、いや)
ミチルの声は、チルチルには聞こえない。それでも、ミチルは叫び続けた。
(お願いです、お兄さま。わたくしを連れて、今すぐここを離れて。二人きりになれる場所で、わたくしを抱きしめて。恋人のように、もっと抱きしめて!)
ミチルの叫びは、脆く儚く潰える。馬蹄の音と車輪が回る音が、近づいてくる。悪夢が、すぐそこにやって来ていた。
「だめっ!」
跳ね起きても、悪夢はしつこくミチルの胸に食らいついていた。馬蹄の音が、車輪の音が、耳からはなれない。ミチルは生温かいシーツを引き寄せて、顔を埋めた。
寝台には、ミチルがひとりきりだった。青い鳥は去っていた。ジルも戻っていない。
ミチルは、裸足のまま寝台からおりた。姿見の前に立つ。ネグリジェの裾が足に纏わりついた。
姿見に手をついて、鏡を覗き込む。長い乱れ髪の隙間から、幽鬼のように虚ろな瞳が燻っていた。
「お兄さま……お兄さま……」
(なんだい、ミチル)
「お兄さまは、ずっと、ミチルと一緒にいて下さるのですよね」
(そう、約束しただろう?)
ミチルは、長く息をついた。やっと、呼吸が出来た。
「よかった……」
(君とずっと一緒にいてあげる。君の幸せを願ってあげる。約束したもの)
「はい、お兄さま」
ミチルは、よろよろと立ちあがった。喉が異常に乾いている。水差しを手に取り、グラスに注いだ。
グラスにうつりこんだチルチルが、にんまりと笑っている。
(本当は、君を一人占めにしたいけれどね。愛しているよ、ミチル。君だけを愛している)
ミチルはグラスの中身を一気にあおった。水が滴る唇が、ゆっくりと弧を描く。
「もう……お兄さまったら」




