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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第一話「ミチルの幸せな結婚」
10/60

悪夢は車輪を回して

 ***


 その晩、ミチルは悪夢を見た。


 ミチルは、美しい部屋の長椅子に腰かけていた。背もたれに寄りかかっている。美しい姿勢を保たなければと、朦朧とした頭の片隅で考えたが、体が言うことをきかなかった。


 美しい部屋には、ここ最近、誰も寄りつかない。頻繁にやって来ていた世話役すら、姿を見せないのだ。ミチルは、もう長いこと、なにも食べていない。お腹がぺこぺこだった。


 銀の格子の向こう側にとりとめのない視線を遊ばせながら、ミチルは、身の回りの世話をしてくれる使用人ではなく、チルチルを待っていた。


(お兄さまは、いつになったら来て下さるのかしら。ずっと一緒だって、お約束して下さったのに)


 チルチルのことを思うと、胸がいっぱいになって、空腹が紛れる。ミチルは、チルチルのことばかり考えていた。


(お兄さまにお会いしたい。会いたいの。いらして、お兄さま)


 そのとき、固く閉ざされた扉がきしみながら開かれた。漂う香りをきいて、ミチルの目に生気が戻る。


(お兄さまの香りだわ!)


 ミチルは、いそいそと身を起こした。血が足りずに目が眩んだが、気にも留めない。そんなことより、薄汚れて皺くちゃになったドレスや、ほつれた髪が気になっていた。

 チルチルが、近づいてくる。いつもより歩調が早い。ミチルは急いで髪を撫でつけ、ドレスの皺を伸ばし、姿勢を正した。憔悴しきった顔で、出来る限り可愛らしく微笑む。


「ようこそいらっしゃい、チルチルお兄さま」


 眩いばかりの笑顔を待っていたミチルに、チルチルは笑顔を返してくれなかった。チルチルは格子にとびついて、がちゃがちゃと何かをやっている。ミチルは、小首を傾げた。


「お兄さま? なにをなさっているの?」

「いい子だ。おとなしくして待っておいで」


 チルチルは、手元から目を上げない。邪魔をしてはいけないのだと悟ったミチルは、素直に頷いた。


「はい、お兄さま」


 あっけなく口を開いた蝶番が、がしゃんと石畳みに落ちる。格子戸が、軋みながら開かれた。

 ミチルは、目を見張る。目を覚ましている時に、格子戸が開くのは初めてのことだ。ミチルは、この部屋が開かれるものだと、認識していなかった。

 美しい部屋に、外へ続く穴がぽっかりと開いた。何が待ち構えているかわからない、暗い穴から、チルチルが手を差し伸べている。


「……さぁ、ミチル。出ておいで」


 ミチルは、花の蜜にひかれるミツバチのように、ふらふらと引き寄せられた。埃を蹴散らし、チルチルの胸に飛び込む。邪魔な格子はない。チルチルの腕に抱かれて、ミチルは酩酊したようだった。


(いい匂い。とても、いい匂い)


 チルチルの首筋に鼻を擦りつける。薄い肌の下で、血脈がどくんどくんと、力強く脈打っている。

 いつもは優しく、髪をといてくれるチルチルは、強引にミチルを引き離した。呆気にとられてチルチルを見上げたミチルは、気がついた。


 チルチルが、険しい顔をしている。彼にこんな表情があったなんて。ミチルにとっては大きな衝撃だった。

 チルチルは、ミチルの手を引いて、歩きだす。引き摺られるように歩く廊下には、冷気が這っている。黴の臭いがつんと鼻をさす。

 ミチルは、足をせっせと動かしながら、チルチルの手を両手で掴む。問いかけた。


「お兄さま、わたくしは、もう完璧な淑女になれたのですか?」


 チルチルは、ミチルを見ない。廊下の突き当たりを、焦げ付くほどに睨んでいる。


「淑女修業の続きは、別の場所でしよう。今は一刻も早く、ここを出るんだよ」

「ご主人さまは、お許しになったのですか?」

「あのひとのことは、忘れて。もう君は、ドールハウスのお人形じゃない。これからは、ひとりの女の子として、僕らとお外の世界で生きていくんだ」


 ミチルは、驚いて足をとめた。ミチルを少し引き摺って、チルチルも足をとめる。

 チルチルは、ミチルの前に跪いた。青ざめた顔で、チルチルはミチルに訊ねた。


「怖いかい?」


 ミチルは、首を横に振った。チルチルこそ、怖がっているみたいに見える。チルチルを安心させたくって、ミチルは、快活に言った。


「いいえ、お兄さま。ミチルは、お兄さまがご一緒して下さるなら、何も怖くありません」


 チルチルは、ぎこちなくも、この日初めての笑顔を見せた。ミチルの頭を撫でる。


「良い子だ。何も心配いらないよ。たった今から、僕は君のお父さまになる。君を必ず、守るからね」


 明らかな子供扱いが不満だった。ミチルは、チルチルの婚約者なのだ。ミチルは、ふるふると頭を振った。


「お父さまなんて、いりません。ミチルには、お兄さまがいてくださればいいのです」

「君には、必要だよ。まだ、小さいもの」


 ぷうっと頬を膨らませて、ミチルは拗ねた。何かがおかしいと、幼いながらに思っていた。

 チルチルは苦笑すると、ミチルの手をひいてまた歩き出した。さっきのように引き摺ることはなく、ミチルの小さな歩幅を思いやってくれている。少し安心して、ミチルは疑問をぶつけた。


「何処へ行くのですか?」

「僕が良いと言うまで、黙っていて」


 チルチルがぴしゃりと言う。ミチルは


「はい、お兄さま」


 と答えて、いけない、と口を塞いだ。罪のないいとけなさが、チルチルを少し笑わせた。


「いい子だ、おいで」


 チルチルは上着を脱ぐと、ミチルを抱きあげた。ミチルの頭から上着を被せて、すっぽりと覆い隠してしまって、石階段を駆けのぼる。

 重く軋る扉を開く。潜り抜けると、空気が変わった。乾いた風がふいている。饐えた空気は、火の臭いがした。


 離れた場所から、押し殺した声がかけられる。見知らぬ男の声だった。


「おぼっちゃま、こちらです。お早く!」


 チルチルが走る。ミチルは、チルチルの首にしっかりと縋りついていた。


(ここは、お外なのかしら?)


 チルチルは、走ったり急に止まったり、上ったり下りたりを繰り返した。胸が悪くなるようなひどい臭いの場所も駆け抜けた。時々、水が流れる音がしていた。


(お兄さまは、いったいどこに向かっていらっしゃるの?)


 しばらく走り続けて、チルチルはやっととまった。ミチルは、チルチルの弾む胸にぴったりと寄り添っている。

 やがて、息を切らしながら、チルチルが言った。


「どうやら、うまくいったようだな」

「まだ油断はできません」


 さっき、チルチルを呼んだ見知らぬ男の声が言った。チルチルが、苦々しく頷く。


「そんなこと、言われなくても、わかっている。……ミチル、苦しかっただろう。もう出て来てもいいよ」


 ミチルは、上着をかきわけると、新芽のように顔を出した。チルチルの微笑みには、さっきよりも、ゆとりがある。呼応するように笑み崩れるミチルの背後で、見知らぬ男が息をのんだ。


「それが……旦那様の」

「僕の妹だ」


 振りかえようとしたミチルの顔を肩口に埋めて、チルチルが跳ね付けるように言った。見知らぬ男は


「左様でございましたな」


 と言い、口を噤んだ。チルチルは、ミチルの髪を撫でながら、抑揚をつけずに言った。


「お前は、もう行ってくれ」

「おぼっちゃま」


 見知らぬ男は、驚きを隠しきれない。チルチルは、重ねて言った。


「これ以上、付き合わせられない」

「ですが」

「行ってくれ、アロンソ。……今まで、ありがとう」


 見知らぬ男は、言葉に詰まった。しばし、言うべき言葉を暗中模索しているような沈黙がある。やがて、男は観念したように言った。


「どうか、お元気で」


 足音が遠ざかり、めらめらと炎が燃える音より小さくなる。チルチルは、くすくすと含み笑って言った。 


「彼は驚いただろうな。僕は傲慢な鼻もちならない奴で、彼にお礼を言ったことなんて、一度もなかったから」


 チルチルは、にっと唇の端を釣りあげた。初めて見る、崩れた感じのする笑顔は、透き通るように晴れやかだった。


「これから、僕らを助けてくれる人と、ここで落ち合う約束をしている。怖がらなくていいんだよ。素敵なひとだからね。君のいいお手本になってくれるだろう」


 小さなミチルは、訳もわからず首を捻っている。

 愚かな小さなミチルを見下ろして、ミチルは叫んでいた。


(いやよ、いや)


 ミチルの声は、チルチルには聞こえない。それでも、ミチルは叫び続けた。


(お願いです、お兄さま。わたくしを連れて、今すぐここを離れて。二人きりになれる場所で、わたくしを抱きしめて。恋人のように、もっと抱きしめて!)


 ミチルの叫びは、脆く儚く潰える。馬蹄の音と車輪が回る音が、近づいてくる。悪夢が、すぐそこにやって来ていた。




「だめっ!」


 跳ね起きても、悪夢はしつこくミチルの胸に食らいついていた。馬蹄の音が、車輪の音が、耳からはなれない。ミチルは生温かいシーツを引き寄せて、顔を埋めた。


 寝台には、ミチルがひとりきりだった。青い鳥は去っていた。ジルも戻っていない。 


 ミチルは、裸足のまま寝台からおりた。姿見の前に立つ。ネグリジェの裾が足に纏わりついた。

 姿見に手をついて、鏡を覗き込む。長い乱れ髪の隙間から、幽鬼のように虚ろな瞳が燻っていた。


「お兄さま……お兄さま……」

(なんだい、ミチル)

「お兄さまは、ずっと、ミチルと一緒にいて下さるのですよね」

(そう、約束しただろう?)


 ミチルは、長く息をついた。やっと、呼吸が出来た。


「よかった……」

(君とずっと一緒にいてあげる。君の幸せを願ってあげる。約束したもの)

「はい、お兄さま」


 ミチルは、よろよろと立ちあがった。喉が異常に乾いている。水差しを手に取り、グラスに注いだ。

 グラスにうつりこんだチルチルが、にんまりと笑っている。


(本当は、君を一人占めにしたいけれどね。愛しているよ、ミチル。君だけを愛している)


 ミチルはグラスの中身を一気にあおった。水が滴る唇が、ゆっくりと弧を描く。


「もう……お兄さまったら」





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