チルチルとミチルの約束1
前作「ヘンゼルと悪い魔女」の世界観を引き継いでいます。そちらを読まなくても、問題なく読んで頂けるように配慮するつもりですが、読んで頂けた方にしかわからない伏線が、ところどころにあると思います。予め、ご了承下さい。
序章 チルチルとミチルの約束
***
ミチルは、外の世界を知らない。物心ついた頃にはもう既に、陽の光も月の光も届かない部屋にいた。スコンスの揺らめく灯りが、ミチルの知る唯一の光だった。
ミチルの部屋には、シルエットがほっそりとした、華やかな意匠の、女性的な家具や調度が揃えられていた。銀の格子の向こう側から見て、それぞれが最も美しく映える場所と角度に安置されている。
毎日、決まった時間になると、赤と黒で肌を覆い隠した、温度も匂いもしない使用人たちがやってきて、部屋を綺麗に整えていく。室内には、塵ひとつ落ちていない。完璧な美観を損なってはならないからだ。
使用人たちは、ミチルの晒し飴の髪と、乳白色の肌を、念入りに洗い、飾り立てる。
「ご主人様」が来る日も来ない日も、区別なく、彼らに手抜かりはなかった。
ミチルの定位置は、二人掛けの長椅子である。
ご主人様は、室内の装飾やミチルの服飾に並々ならぬこだわりをもっていたが、髪は、いつでも洗いたてのように背に流す、シンプルなスタイルを好んだ。ミチルの髪はたいていの場合、結われることはない。すべてが美しくあれ、と人の手で整えられていながら、髪だけは野に生まれた獣のように、生れたままだった。
ご主人様は、時々、ミチルの部屋を「観賞」しにやってくる。
銀の格子の向こう側から、ミチルの部屋の美観を葡萄酒の肴にして、ゆったりと寛ぐのだ。
ミチルは、ご主人様のいる時間が、あまり好きではない。ご主人様が来る日は、使用人たちによって、きつい花の香りを部屋中にたきしめられるからだ。ミチルは、くらくらしながら、ご主人様が満足して去るまで、じっと耐えるしかない。額縁に飾られた画のように、美しい一瞬を、保たなければならない。銀の鎖で縛りつけられるのは、辛い。
ご主人様が、ミチルにかける言葉は、決まっている。葡萄酒を飲み干すと、もう酔ってしまったかのように蕩けた目で、ミチルを見つめて言うのだ。
「お前は、美しい。なんて美しいのだろうね。お前は、この世界が生んだ、最も美しい『キセキ』だ。金で買えるものなら何でも買える、そんな私でも、お前を手に入れられたのは、まさに『キセキ』だったよ」
ミチルは、ご主人様が所有する「美しい部屋」を構成する調度のひとつであり、最も重要な要素だった。
ご主人様も、使用人も、ミチルを人形のように飾っておくだけだ。彼らにとって、ミチルは、呼吸をする、髪が伸びる、成長する、ビスクドールなのである。
もしも、チルチルがミチルを見つけてくれなければ、ミチルは本当に、生きた人形になってしまうところだっただろう。
ミチルは、長椅子の定位置に腰かけていた。少し首を捻って、壁にかけられた絵画を眺めている。
流れるような曲線で、緻密な植物模様が彫刻された額縁が窓枠。そこに嵌められた、さまざまな青と緑で描かれた『森』の風景が窓だ。
美しい青と緑の世界を切り取ったミチルの窓は、ご主人様の審美眼に叶っただけあって、外の世界でも特別に美しい風景らしい。チルチルは、絵画を指さしながら、ミチルに教えてくれた。
『この茶色くて逞しいものは、木の幹。そこに茂っている緑色のものは、木の葉。上の青は空、下の青は湖。湖が青いのは、空の色がうつっているからだよ』
ミチルが、閉ざされた世界に生きていながら、開放された外の世界のことをある程度知っているのは、チルチルが教えてくれるからだった。
チルチルは、ご主人様の子供で、長男だ。しかし、嫡子ではない。長男を嫡子とするのがふつうだが、チルチルは違う。チルチルは「僕が庶子だから」と言って顔をうつむけ、唇を噛んでいた。
チルチルは、ミチルが訊いたら、なんでも教えてくれる。けれど、そうしないだけの分別が、ミチルにはあった。心優しいチルチルに育てられたミチルの心には、幼いながらに、思いやりのようなものが萌していた。
庶子というのは、悪い言葉なのだと、ミチルは理解していた。チルチルが持ってきてくれる本に、庶子という言葉があったら、塗りつぶしてしまおうと決めていた。
チルチルのおかげで、ミチルは、少しだけ、字を読むことが出来る。チルチルは、字列を指でなぞりながら、本を読みきかせてくれる。もっと幼いころは、子守唄でしかなかったけれど、ミチルは、チルチルの語るお話を楽しむことが出来るくらい、精神的に成長していた。
チルチルが読んでくれる本は、女の子が幸せになる物語や、外の世界の生き物や草花を紹介する本が多かった。最近では、そのレパートリーに、詩集が加わった。
レースを編み、気が利いた詩をいくつも諳んじるのは、良家の子女の嗜みなのだ、とチルチルは言う。
『レース編みは、分からないけれど。詩集なら、素敵なものを見繕ってきてあげられるし、読んであげられる。ミチルが、ここにいても完璧な淑女になれるように、僕は手を尽くすからね。何も心配いらないよ』
チルチルが優しく微笑んで、ミチル、と名前を呼んでくれると、ミチルは、それだけで幸せになれる。思い出しただけで、くすくす笑いの発作が起きてしまうくらいだ。
身じろぎすると、ドレスに縫いつけられた、サシェという、香り液を染み込ませた綿を詰めた小袋が布地にこすれて、甘ったるい匂いがたつ。ミチルがあまり好きではない香りだ。
チルチルは『女の子は、こういう甘い香りが好むものだけれど』と不思議そうに首を傾げる。チルチルが社交する、十代半ばの女の子たちは、こぞって、この手の香りを体や髪、ドレスにまぶすというのだ。
ミチルには、信じられない。外の世界が、この甘ったるい「良い香り」にあふれていたら、ミチルは外に出た途端に卒倒してしまうだろう。
ミチルは、知らず知らずのうちに顔をしかめていた。それに気がついて、すぐに澄まし顔をつくる。誰の目がなくとも、神様の目がある。メーテルリンク家の子女たるもの、常に、淑女として振る舞わなければいけないと、チルチルに言いつけられている。
ふと、ミチルの鼻先に、胸が躍る、良い香りが届いた。
「この香りは……お兄さまだわ」
ミチルは、そうひとりごちる。喜び勇んで跳ねてしまいそうになるのを、ぐっと我慢した。そんな無邪気で無作法な振る舞いが許されるのは、小さな子供のころまでだ。ミチルのように、淑女を目指す女の子は、もっと、たおやかな身のこなしを心がけ、身につけなければいけない。
こつこつと、靴の固い踵が石畳をたたく足音が、近づいて来る。ミチルは、素早く身嗜みを点検した。使用人が整えてくれてから、しばらく経っている。着崩れているかもしれない。
ミチルが身につけているのは、ご主人様好みの深紅のドレスである。切り替えが段々に入り、スカートも段々に重なり、フリルが横に何列もついている。喉元と袖口には、漆黒のレースがあしらわれており、だらしのない格好をすると、すぐに型崩れる。ふっと気を緩めた一瞬がはっきりと汚点として残ってしまう、繊細なドレスを身につけているのだ。
背もたれに凭れたり、足を組んだりするような、だらしのない姿勢はとっていないが、それでも、本物の人形のように、身動ぎひとつしないというわけにはいかない。
ざっと見分して、ミチルは、よし、と自分に及第点をくれてやった。ミチルは、頭の先を釣りあげられたみたいに、ぴんと背筋を伸ばすと、格子の前にたどり着いたチルチルに、おっとりとした笑顔であいさつをした。紳士の心の安らぎであるべき淑女には、せかせかしたところがあってはならない。
「ようこそいらっしゃい、チルチルお兄さま」