七、
七、小料理いそにて 後編
杉崎は高らかに笑っていた。
小料理屋いそは杉崎と将人以外の客はないためか、店内に笑い声が余計に響いているようであった。
「二人でそんな話をしたのかい? そりゃあ、青臭いことを言ってら」
将人のことを冷やかしながら、自分のグラスにビールをつぎ足した。
冷やかされた将人はむくれたまま、注文したお造りを一切れ口に放る。
「僕もそう思いましたけど、あの時はかける言葉が見つからなかったんです」
そう反論しても当時を思い出すと、恥ずかしくなり下を向く。
テーブルの上には、それぞれ注文した料理が並んでいたが、二人とも話に夢中になりたいして箸をつけていなかった。
「でもなあ、青いことはいいことさ。 青い柿は決して食えたもんじゃないけど、お日様の光を浴び、たっぷり雨水で潤し、土から養分を吸いこむ。 甘い柿も渋柿も、みなそうやって秋に夕焼けのような色になる。 まだ、お前さんは若いんだ。今は風雨にさらされて、うまい実をつけろよ」
かみしめるようにしみじみと言われ、将人は体の中がほんわかと温かくなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます!」
そんな杉崎に向かって、将人は深深と頭を下げる。
二人のやり取りを黙って見ていた島本の顔が緩むと、尽かさず横やりを入れてきた。
「スギさんも、まだまだそんなことを言うようじゃ青いね。やっぱ、女房子供がいないせいかね?」
「うるせい! お前さんに言われたくない」
杉崎にとって女房子供は地雷らしく、手元にあったおしぼりを島本に向かって投げつけるふりをした。
すると、島本は慌てて杉崎の真正面から厨房の隅へと逃げこむ。
その逃げ方はマンガを見ているようにコミカルで、逃げこむ背中に白い煙が見えそうだった。
「しかし渡部君とやら、もしかして、その人妻に惚れてたんでねえの?」
逃げ果せた島本が、そうっと顔を出すようにして将人に尋ねてきた。
たちまち将人はぶっと吹き出し、「そ、そんなことないですよ」と慌てて否定した。
「それに、先輩として憧れていただけです」
付け加えたのがよくなかったのか島本と杉崎が大笑いし出した。
一人狼狽している将人をよそに、店内には渋い親父の笑い声だけが響き渡る。
「おや? 大当たりかな?」
「渡部君、顔が真っ赤だぞ」
島本に続いて、杉崎もすっかり上機嫌になって、将人のことをからかう。
「ホント、二人とも止めてくださいよ」
親父二人にからまれた将人は、恥ずかしさのあまりうつむいてしまった。
「はははっ、すまん。すまん」
少しは反省しているのか杉崎は謝ってきたが、まだその声音は弾んでいる。
「でも国分さんの旦那は、あれから入院してアルコール依存症を治して、夫婦二人で東京に出て暮らしているらしい。 昨年だったかな? 子供も出来たそうだ。これもみんな渡部君のおかげだと言っていたよ」
将人の隣りでグラスが傾く気配を感じた。
あの日、国分の話を聞いて将人は示談にしようと考えた。
事務所で殴られて軽い脳震盪だったことに加え、もともとお酒さえ飲まなければ穏やかな人と国分は語っていた。
ならば、諸悪の根源であるお酒を断てばいいだけだ。
旦那のことを語る国分は充分に愛していたし、旦那も国分のことを愛していたから事務所に乗りこんできたに違いなかった。
「そうですか。それはよかった」
ことの結末を聞いた将人は、ほっとしてウーロン茶を飲む。
口いっぱいに広がる茶葉の甘味と渋味が混在した味は、今の将人の心境にぴったりだった。
「本当は残念だったんじゃないの?」
島本は懲りもせずまたからかうと、将人は黙ったまま睨みつけた。
「こりゃあ、図星か」
さらに追い討ちをかけられた将人は、黙ったまま睨みつけるしかなかった。
「でも、お前さんのいいところは懐の広さだよ。
それゆえに、他人の荷物を勝手に抱え込んでしまいやせんか。
だから、国分さんは渡部君に寄りかかりたくなかったんじゃないかな?」
不意を突かれた将人は、睨んでいた島本から隣りで落ち着いて飲んでいる杉崎に視線を移す。
その横顔は先程まで子供のような無邪気は消え寂しそうに見えた。
「きっと、渡部君にも幸せは訪れるよ」
「ありがとうございます」
将人のお礼の声を最後に、三人の間はシリアスモードに切り替わり、静かに時間が流れ出す。
外界と遮断されたこの空間では、花火の音など聞こえない。
将人は店内にある時計に目をやると、八時五十分を指しており花火大会が終わっていることを物語っていた。
「ところで新しい職場には慣れたかい?」
「ええ、おかげさまで。優秀な諸先輩に恵まれて、切磋琢磨しています。
まあ、のんびりしているところは健幸と変わりないですけど、この街が好きになれそうです」
将人の返事を聞いた杉崎は満足げな表情をした。
一年ほど前に勤めていた健幸生命を辞め、東京を拠点に各地に営業所を構える大手不動産会社コーワハウスに転職していた。
将人は国分が退職したあと、驚異的に営業成績を伸ばし二年目の秋には社長賞を頂くほどまでに成長した。
しかし本音は事務所でじっと仕事をしていると、国分の残り香がしみついているようで落ち着かなかった。
とにかく逃げ出すために外回りを熱心に行い、成績を伸ばしていった。
傍はたから見たら、がっついているようだったかもしれないが、杉崎たちは若さゆえに突っ走っていると思っていた。
そんなある日、将人は運転しながら海に沈む夕日の美しさに目を奪われ、車から下りて海岸へと赴きぼうっと夕日を眺めていた。
自分はなんて愚かな人間なのだろう。
何をそんなに慌てているのだろう。
国分が言っていた「ゆっくり」が、実行していないではないか。
沈んでいく夕日の寂しさからふとそんなことを思い立ち、のんびり構えて仕事をしたくなってしまった。
そして、「ゆっくり」は健幸生命では実行できないことに気がつき、仕事上必要だったファイナンシャル・プランナーと、こっそり取得していた宅地取引主任者の資格を担保に転職しようと考えた。
ところが不動産業への伝手のない将人は、唯一不動産屋を担当している杉崎には相談しづらく、よく杉崎に連れて行かれた小料理いそのご主人がもとコーワハウスの社員だったことを思い出し相談してみた。
すると同期入社で人事部に配属になった人材がおり、しかもつい最近部長職に就いたという。
島本の話によると奴には貸しがあるそうで、その分を返してもらうために口添えしてくれた。
さらに運のいいことに希望していたA市にある支店に欠員が出て、上手く滑りこんだ。
こうして将人の転職は面白いように流れて決まってしまったが、その裏で島本は杉崎に逐一報告をし、将人が希望している支社へ入れるよう働きかけてくれていた。
よって彼の転職は、島本と杉崎による功績が大きかった。
「でも、よりによってこいつに相談するなんて、渡部君も人が悪いなあ」
島本のことギロリと睨みつけながら杉崎はぼやいたが、矛先の向けられた本人はまるで痛くも痒くもないというふうに振る舞っていた。
「そんな相談を会社の上司にできるわけがないじゃないですか。
でも、お二人のおかげでブランクを置かずに転職できたことは、感謝してもしきれないくらいです」
将人の片頬にえくぼが浮かび上がると、二人して「いえいえ」と遠慮する声が飛び交った。
その息の合い具合に、将人は心の中で苦笑してしまう。
「まあ、よかったな。次は嫁さん探しだな」
「嫁さんなんて、まだ考えていませんよ。それに僕より杉……」
杉崎さんの方が先でしょ、と言おうとして本人に遮られてしまった。
「俺は無理だよ。こんなじいさんじゃ嫁の来てなんてないよ。それに佐々木のおばさんにも毎回言われているよ」
困った表情をしながら、焼き鳥に手を伸ばした。将人は杉崎と佐々木が会話しているシーンを思い浮かべてみる。
そう言えば、よく佐々木は杉崎に「そんなんだから、嫁の来てがなかったんですね」と辛辣なジョークを飛ばしていた。
カウンターの向こう側にいる島本はずっと考えこんでおり、突然拳を握り手のひらで勢いよくぽんと叩く。
「そう言えば、スギさんのところの姪っ子はまだだったよな? 渡部君にどうだろう?」
――杉崎の姪っ子。
将人は一度だけ杉崎に携帯の写真を見せてもらったことがある。
確か初月給でネクタイを買ってくれたと自慢話になり、その流れで顔を拝ませてもらった。
杉崎家の庭で撮影した一枚で、太陽の光を浴びたその笑顔はとても眩しかったことを覚えている。
その彼女に実際にお会いし、柿のことや杉崎のことを話してみたらどんなに楽しいだろう。
そして、自分の失敗談も彼女なら明るく笑い飛ばしてくれそうな気がした。
「ダメ、ダメ。玖美ちゃんは年上の男性が好きなんだよ。渡部君は玖美ちゃんより年下だろう。無理に決まってる」
「そっか。それは残念。じゃあ、うちの女房にでもあたってもらうか」
「やめてとけ。いくら年上好きな渡部君でも、おかちめんこみたいのは嫌いだろう?
それにな、コーワハウスの方がきれいな女の子いっぱいいるんじゃないのか。
だいたい、お前だってそこで釣り上げたんだろう?」
「まあ、そうですけど……。玖美ちゃんとなら、いいと思ったんだけどな」
散々ダメ出しを食らった島本は元気をなくし、不服そうに呟いた。
「それにあれは、弟夫婦の娘だぞ。見合いはアイツの許可なしでは出来んさ」
そう話す杉崎の声は何故か不機嫌に聞こえ、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
将人はがっかりしながら、違和感を感じていた。
その違和感は自分の大切なものを箱に入れて、鍵をかけて大切にしまっているみたいだった。
こうして話していて、がっかりしたのは二回目である事に気付く。
一度目のがっかりは、国分と暴力旦那がよりを戻し子供が授かった。
二度目のがっかりは、杉崎の姪っ子の結婚相手として対象外であること。
だけど、恵まれた環境にいることにも気付いた。
前の職場にも、転職した今の会社にも、尊敬できる先輩に恵まれている。尊敬だけでなく、彼らは自分にとって誇りでもあった。
もちろん、その中には杉崎も含まれている。
「おや? がっかりしてるぞ」
島本の浮ついた声が耳に入り、杉崎はじっと将人の様子をうかがう。
「お前が変な期待を持たせるからだろう」
呆れ声の杉崎。でも、将人は真っ直ぐに杉崎を見た。
「僕は今とても感動しているんです。二つの職場のどちらも尊敬できる先輩に巡り会えました。こんなに嬉しいことはありませんよ」
いざ言葉にしてみると照れ臭さが倍増していき、体中が恥ずかしさでいっぱいになる。
その誉め言葉を受けた杉崎にも伝染していき、鼻の下をしきりに指でこすった。
「いいね! 少年よ、大志を抱け! ボーイズ・ビー・アンビシャス!」
部外者のはずの島本も感動しているのかわからないが、興奮しながらちゃちを入れる。しかし、杉崎も将人も乗ってこない。
「よし、みんなでもう一回乾杯しよう。スギさん、音頭を取って」
乗ってこようとしない二人に痺れを切らせた島本が催促すると、杉崎は「ああ」とわずかに反応を示した。
「では、僭越ながら音頭を取らせて頂きます」
強引に押しきられた杉崎は蚊の鳴くような声で喋ると、勢いよくコホンと咳払いをした。
「みなの人生に幸あれ!」
「カンパーイ!」
三つのグラスが重なり合うと、勢いよく音が鳴り店内を響かせた。
親父二人と若僧一人の居酒屋を舞台とし、まったりとしたお話となりました。
今回、渡部将人が健幸生命に入社間もない頃の思い出を描き、彼がどのようにして大らかな男になったのかを念頭において執筆をいたしました。
しかし、途中で筆が止まってしまったこともあり、傷だらけの小説になってしまい悔しい限りです。
将人は玖美には国分志津子に淡い思いを寄せていたことは、当然話していないでしょう。それに引き替え、玖美は元カレ西崎のことをほんの少しだけ話しているのに……。
玖美は西崎の結婚を知って伯父の家に篭城し泣き明かしたくらいですから、嫉妬が怖くて話せないと思います。
将人は完全に玖美の尻に引かれていますね。
それはさておき、話を元に戻しましょう。当初四、五回で収めようとしていたのですが、なんと七回になってしまいました。
気が付けば本編に近い長さになってしまいました。
よく考えたら、将人の過去のお話ですからまっさらの状態で一から構築しなければいけないため、掌編では収まるはずがありません。
国分志津子に関しましては、DV旦那と元の鞘に収まりましたが、別れて別の人と結婚という選択肢も視野に入れてました。
ただ、将人と恋に落ちるという展開は全く考えていませんでした。
もし国分と結ばれても、玖美と結婚するためには別れなければいけませんので、それだと虚し過ぎます。
また杉崎の最期やお葬式で玖美を見かける将人、島本が玖美と将人のために一肌脱ぐ場面、「柿の花咲く頃」から一年後の玖美と将人を書きたかったのですが、詰め込み過ぎになってしまうため、あきらめました。
肝心なことを書き忘れておりました。
一部内容に喫煙を賛美するような場面がございますが、あくまでも創作上のことですのでご注意下さい。
とにかく今、こうして書きあがりほっとしております。
このお話を持ちまして、一旦「柿の花咲く頃」は終幕となります。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
秋沢文穂拝