六、
六、語る女
すべての柿をむき終えた国分は、将人が差し出したウェットティッシュで手をふきながら言った。
「まだ私と夫忠文とは夫婦なの。だから、私があなたに謝罪するのは当然なのよ」
きっぱりと話す国分に将人は反撥したくなった。あんなにさんざん暴力をふるわれていたのに、旦那を擁護している。
以前新聞でDVを受けていると、どんどん感覚が麻痺して、被害者自らが悪者になってしまう記事を読んだことがあった。国分もそうなのだろうか。
しかし、杉崎の話によると国分はまだ序の口だったらしい。将人の思考回路がこんがらがっていく。
不満が顔に出たのか、国分は将人の顔を見て、ふっと軽く笑った。
「ついこの間までは私がいけないと思っていたわ。でも、夫と離れてみて気付いてしまったの。知らず知らずにこの世の中を憎んでいることに」
激しい怒りの口調に、将人の肩がびくっと動く。怖い顔をした国分から目を逸らし、時計を見ると三時十五分になっていた。
「忠文は温厚で優しい人だった。私たちが出会ったのは九年前の夏。彼は私が勤めていた会社に、よく配達しにやって来ていたわ。 とても、暑い日だった。私は思いきって、いつも配達にやってくる彼に冷たい麦茶を出してあげたの」
その日のことを思い出したのか、国分の頬がばら色に染まる。
「いつもは、業務上の話しかしないのに、その日はすごく会話が弾んでね。 それから私たちは顔を合わせる度に話すようになって、電話番号やメアドの交換をするようになり、デートをするようになった。 随分、色々なところへ行ったわ」
どうやら、国分夫妻の交際は一杯の麦茶から仲が進展し、ゆっくりゆっくり時間をかけて愛を育んでいったらしかった。
「そして、付き合い始めて一年後。私は夫からプロポーズをされ、私たちは結婚をした。本当にあの頃は、順風満帆な人生だと思っていたわ」
夫婦となった二人はお互いを思いやり、さらに愛を深めていったのだろうと、将人でも容易に想像ができた。
なぜなら、語っている彼女の言葉の端々から、当時の幸せが滲み出ていた。
「でも、幸せは長くは続かない。ううん、私の思い過ごしだったのかも……。そんなふうに思えるのって、ほんの一瞬でしかないのよね」
幸せだった国分の顔が、瞬時に沈む。
若い将人にとって自分の過去を掘り起こす作業がどんなものなのかを想像しがたいが、ふと嫌なことを思い出した時に起こる苦味ならよくわかる。
しかし、ここで言葉をかけてしまうと嘘になることは充分わかっており、このまま口を噤み次の言葉を待った。
「主人が働いていた運送会社は小さな会社だった。社長の奥さんが副社長と経理を兼任している、つまり同族会社だったの」
一回、息を飲みさらに国分は話を続ける。
「ある日、事務所に置いてあった七万円がなくなってしまったの。用のあった主人が事務所から出てくるところを、社長の奥さんとかち合ってしまった。 お金がなくなったのは、その後。当然、主人はお金を盗んだ疑いをかけられてしまったの」
とても悲しそうな目をする国分に堪えられなくなった将人は、机に乗っている柿に目をやった。
オレンジ色の表面には太いストライプのような筋がついている。甘そうに見える柿は切り口から果汁が滴っており、水分も豊富にあることを物語っていた。
「渡部さん、どうぞ」
柿に目をやっているのを見抜かれたのか、国分は勧めてくれた。
しかし、苦手な将人は柿を食すことを後回しにしたかった。
「ええ、ありがとうございます。もう少し後で頂くとして、お茶を飲みませんか」
「そうね、折角いれてくれたんですものね。頂くわ」
将人の作戦が功を奏し、早速国分はマグカップに手を添えてぐいっと飲み込んだ。
その姿を見届け自分も彼女に倣ってひと口だけ飲みこんだ。
お茶は湯気が立っているにも関わらず温くなっていた。でも、その温さが心地いい。
自分で淹れたはずなのに、こんなにおいしいお茶を飲んだのは久しぶりだ。
もしかしたら、国分と二人きりでいるこの空間がそうさせているのかもしれない。
「だけど、私は人に叩かれようが、罵られてられようとも、にこにこしている人がそんなことするわけがないと、信じているわ。もちろん、今でもよ」
「ご主人は身の潔白を証明しなかったんですか」
将人はタブーを破り、口を挟んでしまった。いや挟まずにはいられなかった。
それだけ国分の話を注意深く聞いていた。すると、わずかに頷き、
「もちろんしたわ。だけど、信じてもらえなかった。 それどころか『このことは黙っていてやるから、退職届を書いて来い』って社長に言われたわ。私はその話を聞いて頭にきた。 だから、『人を信用してくれない会社にいても意味ないから、辞めていい』って言ったの」
憤りを抑えきれない国分の言葉に、将人は「当然です」と力強く相槌を打った。
すると、国分は弱々しく「そうよね。当然よね」と独り言のように返した。
誰だって自分を信用してくれない人とは、関わりを持ちたくないだろう。
例えどんなに口先だけで否定しても、知らず知らずのうち避けているのが、人間の性というものだ。
「だけど、再就職先はなかなか見つからなかった。その苛立ちからお酒に手を出すようになってしまった。 最初はほんの気晴らしから飲んでいたけど、だんだん昼夜問わず飲むようになってしまったの。 おまけになくなったお金は社長がホステスに貢いでいたのよ。彼にとっては悔しかったみたいで、腹いせに私に暴力をふるうようになってしまったの」
国分は悲しげな表情をして、遠い目をした。将人には、まだ夫を愛している妻のように思えた。
「……そうだったんですか」
神妙な将人の声が、二人だけの空間に響き渡る。
「でも、よくわからないの。どうして主人があんなふうになってしまったのか。 私がいけなかったんじゃないかしら、って今でも時々思うの」
「国分さんは悪くないですよ。だって、ご主人の代わりに一生懸命働いていたじゃないですか。 僕みたいな若僧を引っ叩いてくれたじゃないですか」
自分を責める国分に腹立たしくなったわけではないが、自然に熱のこもってしまった。
国分の悩みを知らずに、のうのうと自分のことばかり考えていたことが腹立たしかった。
「ああ……」
国分のため息とも取れる声がしたかと思うと、頬を緩めた。
「だって、大切な取引先よ。契約を一方的に破棄されたら、佐々木さんに申し訳ないじゃない」
「えっ? あそこって佐々木さんが契約を取ったんですか」
将人はおばさんおばさんしている佐々木が、新規開拓をしたとは到底思えなかった。
「そうよ。ああ、見えても佐々木さんはスペシャリストなのよ」
ニヤリと笑うと、将人の胸が飛び跳ねた。
それが国分の妖艶な笑みに対してなのか、佐々木が優秀なセールスウーマンという新事実に関してなのか、よくわからない。
「それに渡部さん、ずっと焦っていたでしょ? 杉崎さんも佐々木さんも、若いのにこんなしみっ垂れた営業所でかわいそうって、同情をしていたのよ」
「えっ! 僕の気持ちにみんな気付いていたんですか」
配属初日、干物のやり取りを見て、がんばろうと思っていた気持ちが一気に引いてしまった。
自分はこの悪しき風習の中に埋もれまいと、必死になって新規開拓してだらけきった雰囲気を変えていこうとしていた。
そして、幹部に認められて本社へいこうと躍起になっていた。
それをみんなに見透かされていたなんて。恥ずかしいにもほどがある。
「じつはね、私も最初入った時、アットホームな雰囲気に馴染めなかったの。 杉崎さんは何を考えているかわからないし、佐々木さんはおばさん全開で他人の心のうちまで、入って来ようとするじゃない? だから、私と夫のことを知られそうで、怖かったのよ」
そう話すと笑みを浮かべ、お茶をすすった。カップのふちには赤い口紅の跡が残り、将人はぼうっと見つめていた。
「それより、引っ叩いたところ痛くなかった?」
「あ、いや……」
あの日の痛みはすっかり癒えていたが、国分に直視され将人は狼狽してしまった。すると、彼女の目が細くなる。
「あなたにゆっくりって言っていたけど、本当は私自身に言い聞かせていたのかもしれないわ。主人のことで焦っていたのかも……」
二人の間に静寂が流れる。国分は引き続きお茶をすすり、将人も真似てお茶を飲んだ。
「それにしても、電話が鳴らないわね」
静けさに包まれているオフィスに疑問を感じた国分がぽつりともらした。
「杉崎さんが僕一人じゃ対応しきれないだろうって、留守電にしてくれたんです」
将人は応えながら、杉崎に感謝した。留守電にしてなかったら、今頃電話がひっきりなしに鳴って応対に苦慮していただろう。
折角、国分と二人きりになれたというのにゆっくり話している暇はなかっただろう。
「ああ、なるほど。それより柿をいただきましょうか」
将人の心中など知る由もない国分はさっさと手を伸ばし、柿を食べ始めた。
「甘くて美味しい。あれ? 渡部君食べないの?」
不思議そうに尋ねられても、手を伸ばして食べる勇気がない。
「いや、あのう、ちょっと苦手なもので……」
尻込みしている将人に、国分は食べるのを止めてしまった。
「だまされたと思って、食べてみて損はないわよ。こんなに美味しい柿めったに食べれないわ」
再度勧められて将人は思いきって柿に手を伸ばした。
太陽のエキスを浴びたオレンジ色の果実は、果汁をたっぷり滴らせ、そのべたつき具合から甘そうに見えた。
目を瞑って半分ほどかじりつくと、口いっぱいにみずみずしい甘さが広がる。
さらに咀嚼すると、柿というよりも砂糖菓子を食べているみたいだった。
「うわぁ~、甘い!」
思わず歓喜の声を上げていた。国分も二個目に手を伸ばしている最中で、
「でしょ? 本当に、甘いわね」
嬉しそうに将人に同調した。
「僕、杉崎さんのおかげで柿の認識が変わりました」
「大袈裟ね。でも、その言葉を杉崎さんに言ってみたら? きっと喜ぶわよ」
先程まで暗い顔をして語っていた国分は、嘘のように明るい顔をしていた。
それは自分のリアクションに対してなのか、柿の甘さと美味しさに感動してなのかは、将人にはわからない。
ずっとこのまま、明るい顔で過ごして欲しいと願っていた。
将人は今思ったことを伝えようと、静かに「国分さん」と呼びかけた。
一瞬国分は、はっとした顔をしたように見えたが、自分の勘違いだと思いこもうとした。
「僕はどんな人間でも、平等に幸せになる権利があると思ってます。だから、国分さんもきっと幸せになりますよ」
「ありがとう。でも、ちょっと臭いわよ」
そう言って苦笑いを浮かべ、ポケットに手をやり、桜色の小箱を取り出した。
「あっ! ここは禁煙ですよ」
慌てて将人は煙草を吸おうとしている国分を制止させる。
「あ、そうだったわね」
くすりと笑う彼女と目が合い、将人もつられて笑い出す。もう二人の間には緊迫した空気など存在しなかった。
そして、国分とは姉弟みたいな関係だったことに気付く。
自分は国分志津子という女性に憧れを持ち惚れていたが、将人のうちでは素敵な先輩の一人ということに変わりなかった。
笑っている二人を邪魔するようにドアが開き、「ただいま」という男性の声がした。
声の方向に目をやると、もう一人の素敵な先輩杉崎がきょとんとして立っていた。
「あ、お帰りなさい」
「二人して、どうした? 外までまる聞こえだぞ」
杉崎は背広をハンガーにかけながら、まだにやけ顔の二人に尋ねた。
「内緒です。二人きりの」
将人の目を見ながら、国分が答える。その言葉の先には、「ね、渡部さん」とでも言いたげである。
でも、将人はそんな言葉の裏を深読みせず、もう一人の素敵な先輩を見つめた。
「わかりましたよ。どうせ、じいさんは蚊帳の外ですよ」
拗ねてしまった杉崎は、自分の父親と近い年齢なのにかわいく思えて仕方なかった。