二、
二、存在の薄い女
渡部将人は国分志津子に出会うまで、女性が飲酒喫煙することに抵抗感があった。
それは彼が自然の中で伸び伸び育ったせいかもしれないが、身近に飲酒喫煙する女性がいなかったせいかもしれない。
また祖母はテレビドラマなどで女優がたばこを吸ったり、お酒をあおるようにして飲んでいるシーンが出ると、露骨に嫌そうな顔をした。
さらに酔っ払ってろれつが回らぬシーンに出くわすと、「みっともない」とすぐにテレビを消していた。
おばあちゃんにべったりだった将人は、飲酒や喫煙をする女性はいけないことをしている価値観を植えつけられてしまった。
ところが国分志津子は今までの価値観を覆す女性だった。
大手保険会社健幸生命に入社できたのは本当にラッキーだった。
友人の中には就活に失敗して大学院に進む者、専門学校に入学し、資格を取ろうとする者がいた。
自分は就職できたのだから、この会社ために働き出世していこうと野心を持っていた。
ところが配属された部署は東京本社や実家のあるM市内ではなく、自分とは縁も所縁もないA市だった。
子供の頃に家族と海水浴や梅を見に行っただけのこの街は観光地としてのイメージが強く、保険とは程遠く感じていた。
入社初日元気よく、「おはようございます!」と扉を開けたまでは良かったが、事務所内があらわになって驚いた。
女性二名、男性一名しかおらず、しかも見た目にも平均年齢が高そうだった。
男性は毎日暇で海釣りを楽しんでいるような佇まいの初老で、顔は真っ黒に日焼けしている。
女性の一人は髪の毛の生え際から白髪がのぞき、顔の至るところにシミやシワが刻まれ、いかにもおばちゃんといった風情だった。
もう一人の女性は二十代後半から三十代前半ぐらいで、生活に疲れ切っているように肌の血色も悪かった。
女性陣二人の左薬指にはリングが沈められていて既婚者であることがわかったが、男性には見受けられない。
しかし、ワイシャツにくたびれた感じがないので、奥さんが洗濯とアイロンがけをまめにしているのかもしれなかった。
「おおっ! 新人君、ようこそ!」
初老の男性が、呆然と立ちすくんでいる将人に気付き声をかけた。
「杉崎さん、新人君じゃないでしょ。渡部将人君でしょ」
おばちゃん風情の女性が呆れながら、口を挟んでくる。
「すまんね、佐々木さん。まあ、渡部君取り敢えずそこに座って」
杉崎と呼ばれる男性が指したのは、茶色いソファの並んだ応接セットだった。
「わかりました」
将人は緊張した面持ちでソファへ歩き出すと、血色の悪い女性の背後を通り過ぎた。
生活に疲れ切っているはずなのに、ふわっとした甘い香りが漂う。女性は将人に気付き目礼して、コピーを取り続けた。
その女性の存在が不思議だった。眼差しが死にかかっているのに、身なりだけはきちんと整っている。
まるで廃棄物処理場に一輪の赤いバラが生命逞しく咲き誇っているようだ。
夢心地に陥ってしまった将人がソファに腰を下ろすと、現実世界に引き戻す「あ!」という叫び声が聞こえてきた。
その「あ」に濁点が付くぐらい濁っていた。
「杉崎さん、昨日の干物、持ちかえるのを忘れたでしょ?」
「すまん、すっかり忘れてた。今日こそは持って帰るよ」
今度は男性の声。どうやら杉崎というのが、初老の男性の名前らしい。
「佐々木さん、ごちそうさまでした。今朝主人と頂いたけど、すごく美味しかったです」
佐々木さんと呼びかけていることから、声の主はコピー取りをしていた女性らしい。
その風貌からセクシーな低音声を想像していたが、意外にもふわっとした明るい声音だった。
「でしょ? あそこの干物は本当に美味しいのよ。杉崎さんも忘れずに持って帰ってくださいよ」
佐々木が鷹揚にして声を張り上げると、またしても苦笑いをしながら謝っている杉崎の声がした。
一連のやり取りを聞いていた将人の肩が一気に抜け落ちる。
もっとてきぱきと仕事の話をするのかと思いきや、のんきに干物の話をしている。
所長も所長だ。どうして干物を持ち帰らずにパートのおばさんに責められ、謝っているのだろう。
この営業所はたるんでいて、新人の自分には向いていない。今すぐにでも会社に本社勤務か実家のあるM市内への移動を届け出よう。
決心のついた将人のもとに、ようやく杉崎が現われた。
「いやあ、所内のドタバタを見せてすまないね。思っていた部署じゃなくて、さぞがっかりしたろう」
悪気なくさらりと述べる杉崎に対し、思わず「はい」と返事をしそうになる。
「いいえ、アットホームな職場でほっとしました。僕は大学入学以来ずっと一人暮ししてきたので、家庭の温かみに飢えていたんです」
唇は「は」の形を作っていたのに、実際には嘘がすらすら出てきて驚いた。
さらに無理矢理に笑顔を作って見せたが、上手く笑えていないだろう。
ところが杉崎の顔色を窺うと、にこやかな表情に変わり「おう、そうか。よかった、よかった」と手放しで喜ばれた。
生意気な新人君になりたくなくて愛想笑いを浮かべ、罪悪感が広がっていくのはなぜだろう。
もうすでにここから逃げ出したくなっているせいだろうか。
「渡部君、こんなジジババしかいない営業所ですまないね。だけど、みんな君を歓迎しているんだよ。仕事でわからないことがあったら、なんでも聞いてくれ」
おっといけねえともらしながら、杉崎は胸ポケットに手をやって名刺を差し出した。
「私はここの所長を勤めている杉崎直也だ。よろしくな」
将人も立ち上がり、直立不動でお辞儀をした。
そのお辞儀は若者らしくびしっとしていて、これから立ち向かうであろう困難を跳ね返すだけの強さを持っていた。
その時、「失礼します」と、かしこまったおばさんの声がした。
「おお、丁度いいところに来た」
杉崎の声に反応して頭を上げると、干物おばさんがお茶を運んでやってきた。
お茶は杉崎から将人へと差し出され、もう一人前の健幸生命の社員として扱われていることを物語っていた。
「こちらのおば様は……」
すぐに「所長!」と悲鳴めいた鋭い声が飛ぶと、慌てて言い直し、
「佐々木登紀子さん。入社八年目のベテランさんだよ。俺よりも気が利くから何でも訊いて」
「よろしくね、渡部君」
お盆を抱きかかえた佐々木が手を差し伸べてきた。
将人も手を出して握手すると、主婦独特の荒れた肌の感触に自分の母親のことを思い出された。
「申し訳ございませんが、国分さんを呼んで来てくれないか」
睨みをきかせている佐々木に負けたのか杉崎は丁寧に命令すると、素直に返事をして出て行った。
遠くの方で佐々木がぼそぼそ話しかけている声が聞こえ、止まるとすぐに国分と呼ばれる女性が姿を現した。
「所長、何かご用でしょうか」
国分はやはりコピーを取っていた女性で、将人は切れ長の目に釘付けとなり、心臓がとくんと飛び跳ねた。
「渡部君、こちらは国分志津子さん。入社二年目だったかな?」
杉崎の問いかけに、「はい、そうです」と清楚な声。
心臓がとくんとひとつ飛び跳ね、次第にどきどきに変わっていく。
「君は彼女について、得意先を回ってもらうよ。いいかな?」
杉崎は将人の気持ちを知ってか知らずしてか念を押してきた。
しかし、将人は上の空で体から大量に何かがあふれ出ようとしていた。
「こ、この人とですか」
嬉しくて声が上ずっているが、その声音は不満を隠せない陰湿さが漂っていた。案の定、国分の顔が影っていく。
将人の不満めいた声は同じ場にいた杉崎にもわかってしまったらしく、改めて打診する。
「うーん、不満か。じゃあ、じじいとばばあどっちがいい?」
ばばあ扱いを受けた佐々木は尽かさず「所長!」と声を荒げた。佐々木さんは地獄耳だなと変な感心をしていると、杉崎が困った顔をした。
「せっかく、みんなで話し合って決めたのにな。国分さんなら渡部君と年が近いし、姉弟のような関係を築きながら教育できると期待していたんだがなあ」
佐々木のことは無視して、出来たてほやほやの問題に眉をひそめる。
将人に嫌われたと勘違いした国分は、「やっぱり、所長の方がいいんじゃないですか」と意見した。
「俺は無理だと言ったろう。本社会議に参加したり、この辺りの支部長も担当してるから、腰を据えて教えるのは難しいんだよ」
杉崎の言葉を聞いて自分に降りかかると思ったのか佐々木が飛んでやってきて姿を見せた。
「私はごめんだよ。やっと国分さんが一人立ちしたばかりなのに」
三人の会話を聞いていた将人は、次第に自分がひどくわがままな新入りのように思えてきた。
むしろ嬉しくてたまらないはずなのに、どうして不機嫌そうな声になってしまったのかはわからない。
不満なんて全くないのだから、急いで弁解すべきだろう。
「わがままを申しまして、すみません。僕、国分さんに教えて頂きたいです」
国分と発した瞬間、体が火照っていくような感覚になる。
足下から頭の先まで熱くなり、体中の毛穴が全て開いて玉のような汗が流れ出していく感覚。
全ての神経が麻痺しきってしまう。
「そうか、よかった。それじゃあ国分さん、しっかり渡部君を教育してやってくれよ」
杉崎はあっさりと問題が解決して嬉しいのか、にこやかな表情をした。
すると、国分も嬉しそうに返事をしてから将人に向かって手を差し出した。
将人は高鳴る鼓動を抑えつつ、差し出された国分の手を握り返した。見た目は白くて滑らかそうな手は微かに荒れていた。
しかし、佐々木と違うのはぬめっとしていて、冷たい。
力を入れて握ると、骨が折れてしまうのではないかと思えるほど、やせていた。
お互いの手が離れた瞬間、将人は今握った手は本当にこの世に存在するものなのかと疑いたくなるほど、存在感が薄かった。




