表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

モーニング

読みやすく改行しました。

 爪を噛む癖がいっこうに治らない。

私の指はいつもささくれ立っているし、関節も太くて醜い。

黒板の文字をそっくり写すためにあるはずの、まだ白いノートに手のひらを押し当ててみる。

無意味な数学の時間も、すでに半分は過ぎているというのに複雑な数式はノートにこれっぽっちも書かれていない。

手のひらに沿うようにシャーペンの芯を走らせると、ぼやけてつながった一本の線は、今朝見た黒猫の尾っぽみたいに、空白のノートに場違いなくらい、はっきりと際立った。

紙の上には、私のごつごつとした手のひらの影だけが残った。

「ねね、見てよ須田の奴またやってる」

背中をつつかれてはっとすると同時に、後ろの席の佐奈にそう話しかけられた。

仕方なく佐奈の言う方向に首を向けると、教室の一番隅の席に座る須田が、隠れるように小さくなりながら机に突っ伏してじっとしている。

ただそれだけのことなのだが、この男は授業という授業はほぼこのスタイルで過ごしている。


机の上を丁寧にハンカチで拭いてから机に頭をあずけると、時々思い出したようにビクンと体をこわばらせる以外はほとんど動かない。

だからといって休み時間や放課後になるとはしゃぎだす、自分の存在を示すことに全力をかけている男の子とは違い、休み時間も昼休みも本当に興味がないように過ごしている。

須田にとって学校は、ただ受動的に受け入れるしかない現実なのだろう。また、それは私にも言えることだが。

 須田の頭の下にあるノートは、私のノートよりも少ない線しか書かれていないのだろうな。


なんとなくそんなことを考えながら、佐奈を振り返ると、もう須田には興味がないようにノートの端を、器用に正方形の形に切っていた。

きっと誰かに回す手紙でも作っているのだろう。

もう須田は佐奈の視界からすっかり消えてしまった。

 

 夜遅くに降った雨も無事に蒸発し、からからに乾いたアスファルトの上を三十九人の生徒が走っている。

記録には興味はないが、後ろのほうで荒がる息を隠して、楽しそうに話しながら走る女の子の声が聞こえて、反射的に少しスピードを上げる。

 夏は水量が少なく、どこか情けない川の横を沿うように延びた、きれいに舗装された土手は、本当にどこまでも続いているようにしか見えなかった。

 太陽がすぐ目の前にある。汗が目の中に落ちてきて、水彩画に水をこぼしたように右側の緑がぼんやりと淡くにじんだ。

ふと、にじんだ緑の中に誰かがうずくまっているのが見えたような気がした。

まだ距離はあったが、ぬぐうように右目をこすると、黒々とした髪を汗で額に張り付けながら、土手の脇に小さくしゃがみこんでいる男を見た。

抱え込んだ膝からは汗と混ざって色の淡くなった血が一筋、紺の短パンから伸びた足に流れていた。

淡い血は須田の白い肌に良く映えて、午後の土手に鮮やかに映った。

 さっきまでうつむいていた須田は、少し顔を上げ私と目が合ったかと思うと、またすぐに使い古した運動靴に目を向けた。

 一瞬見た、小さく黒めがちな須田の目は、まるで十姉妹の目のようにしっとりと濡れていて、その目の下は洗い流されたのか、赤々としている。

見てはいけないものを見てしまったような気がして、遠くの空を見るようにしながら、須田を急いで追い越した。

少しすると、後ろにいた女の子たちが立ち止まって須田に話しかけているのが聞こえてくる。走ったことで早くなっているはずの心臓の動きが、さっきよりもずいぶん早くなっているような気がして、スピードを緩めた。


 私の部屋はだいたいいつもどうりで、お下がりの小さいテレビの中では、同じ年くらいの女の子が、水着姿で笑っている。なんとなくテレビを見ながら、くすねていたお姉ちゃんのタバコを、むせないように注意して吸ってみた。

すぐにニコチンが脳みその上のほうに侵入してくる感覚にとらわれる。

ニコチンに侵された脳みそは、単独で太平洋に浮かんでいるみたいにゆらゆらと揺れ続ける。


タバコってマリファナみたいだ。麻薬なんか吸ったことないくせに、そう思ってゆっくりと目を閉じた。

 小さく流れているイギリスのロックは、真っ黒なカラスをクレヨンで殴り書いたようなジャケットが気に入って埼玉の叔父さんに譲ってもらったものだ。

世界平和を歌っているらしい歌詞は、英語が理解できない私にはわからないけれど、今も確実に平和について歌っていた。

「早くお風呂入っちゃいなさい」

下の階からの声に、急いでタバコの火をダイエット・ペプシの中に放り込む。

私の脳みそを複雑に侵したタバコは、シュっと小さく鳴ったかと思うとすぐに赤かった炎は見えなくなった。


 長くなった髪をひとつにまとめて、いつものように服を一枚一枚脱いでいくと、なにかがいつもと違うことに気づいた。

下着に顔に近づけてよく見ると、やっとそれが血だとわかった。

下着に染み付いたまだ新しい血は、少し乾いて、くすんで赤茶色くなっている。

今日見た淡い血と比べると、私の血はなんだかとても汚いような気がする。

十姉妹の潤んだ目を思い出すと、少しだけ体が熱くなった。


「2組のユミって確か、あんたと同中じゃなかったっけ」

お腹が痛いのを我慢して、席に着くなり佐奈に飛びつくように話しかけられた。

「同じ中学だし、同じクラスだった」

「そのユミがさ、妊娠したらしいよ」佐奈の声は弾んでいる。

ユミとは中学校で同じ水泳部に入っていて、部活がある日はほとんど一緒に帰っていた。

高校に入ってから接点がないためか疎遠になっていたが、内気で消極的だったユミが妊娠だなんて、やっぱり信じられなかった。

ユミの家には、赤と黄色の羽を持った大きなオウムがいて、一度オウムの割には小さな家に行ったこともあるはずだ。

オハヨウ、オハヨウと馬鹿みたいに繰り返すオウムは、壊れたラジオみたいに、不規則にただ叫んだ。

しかし、ユミの顔を思い出そうとしても、ぼんやりとしか思い出せない。

中学時代の日焼けした顔は、きっと私の顔とよく似ていただろう。

あのおおきなオウムの名前も忘れてしまった。

 私と同じようなユミの体の中に赤ちゃんがいるなんて。

ユミとは対称的にまだ初潮がきたばかりのお腹をさすりながら、ユミの体内に生まれた新しい命を想像して、なんだかおかしくなって、少し笑った。

 

 夜になっても私の体からは、ユミには流れなくなっただろう大量の血が、容赦なく世界に向かって流れだしている。

私の中の不必要な血が無感情に体の外に流れ出していくのは、とても腹立たしく思えた。

須田の血があんなにもきれいに見えたのは、あの血は流れてはいけない血だったからではないだろうか。

私からは使い古された、汚い血が、流れている。

もう一度須田の淡い血が見たいと思った。

 それと同時に、ユミのことを考える。

きっとユミの体の中には保健体育の授業で習ったように、血液で出来たベッドがあって、その羊水で満たされた部屋には、小さな赤ちゃんが眠っているのだろう。

ぼんやりと想像してみたけど、やっぱり実感は湧かなかった。

ただ私もユミの中にある暗闇で、暖かな羊水に包まれて、時間を忘れてただただ眠りたいと思った。


 さっきまであんなに眠りたいと思っていたはずなのに、柔らかすぎるベッドに横になっても、睡魔は一向に訪れなかった。

体は眠りたいと思っているはずなのに、頭のどこかがはっきりと覚醒している。

 体を起こしてぼんやりと窓の外を見る。

街頭に照らされた明るい夜の中に、一匹の猫が塀の上で目を凝らして、何かを見ているようにじっとしている。

猫はただじっとそこにいるだけで、いくら待っても何も起こらなかったし、何か起こることを期待して見ているわけではなかった。

 しかし、ずっと猫を見ていたにもかかわらず、猫はいつの間にか、そこから消えていなくなっていた。

私はひたすらに猫を見ていたのに、本当は猫なんか見ていなかったのかもしれない。


 私は結局いつもそうで、つまりすべてがそういうことなのだ。


 ずいぶん遅い時間だと思っていたのだが、時計を見るとまだ、十時になったばかりだった。ふいに中学生だったころによくやっていたように、夜の学校のプールに行ってみようと思った。

もちろんそのときは友達も一緒だった。

妊娠したユミとも行ったことがあったかもしれない。

 私は引き出しに入っているクリアファイルの中から、クラスの連絡網を引っ張り出した。

たくさん書かれた電話番号の中から、ひとつの番号を一息に押すと、携帯の向こうで呼び出し音が鳴り始めた。

そうしてしまってから、私は須田の名前を知らないことに気づいた。

五回ほどコールが鳴ったあとに、

「はい、もしもし」とかすれたような女の人の声が聞こえた。

私が仕方なしに須田君いらっしゃいますかと聞くと、かすれた声の女の人は少しだけ笑って、丁寧に須田に取り次いでくれた。

十二時に学校のプールに来てほしい。

と言って、須田の返事も聞かずに一方的に電話を切った。

交わした言葉は少なかったが、須田の少し高い声はやっぱり私の心を惑わした。


 電話に向かったことで、緊張していた体が落ち着くと、薄いジャケットをはおり、髪を乱暴にまとめて、スニーカーを履いた。

 両親はすでに深い眠りについているようで、私が最後の明かりを消すと全ては紺色の闇に飲まれた。そういうわけで、ライトに照らされた、本当は闇であるはずの夜の中に、私が飛び出していくことを、止めるものは何もなかったのだ。

 めったに乗らなくなった自転車で、春から夏に変わる間の生ぬるい風を作りながら、思いっきりペダルをこいで走る。

ライトなんかつけなくても、目が慣れると十分に道は見えた。

しだいに加速していく自転車の上で、私はひたすらに夜に酔っていて、たぶん自分にも酔っていた。 

 十二時にプールに。

と須田に言っておきながら、時計も携帯も持ってきていなかったので、今が何時なのかわからない。

最後に時計を見たのが十時五十四分だったので、わかるのはそれより後の夜だということだけだ。

 

 学校の校舎はたぶんセコムか何かの警備会社に入っていて、部外者の侵入を厳しく取り締まっているというのに、裏手にあるプールは完全に警備の対象外らしかった。

プールの周りには私の胸くらいの高さのフェンスがあるだけで、少し勢いをつければ乗り越えられる。

しかしそんなフェンスでも、いざ乗り越えて中に入ってしまうと、スチールで仕切られた外と中では、現実と夢のように、はっきりとはわからない違いがあるように思えた。

 学校指定のスニーカーを脱ぎ捨てて、端から二番目のコースの飛び込み台に腰掛けた。

まだ汗ばんだ指先を、ひとおもいに冷たいプールに突っ込むと、高揚していた気持ちが徐々に和らいでいった。

 須田は来るのだろうか。

ここに座って黒い水を見ていたら、なんだか須田のことなんてどうでもよくなった。

あの時、須田の家の番号を一息に押してしまうことに意味があったような気さえしてくる。

でもまた、やっぱり考えて、須田に来てほしいと思った。

 そうして私は、目の前のねっとりとした液体にユミの羊水を見た。


 どれくらいの時が経ったのか。

フェンスを乗り越える人影が見えた。

外灯は遠く、顔は見えなかったが、須田以外の誰かであるはずはないと私にはもうわかっていた。

そしてそれはやっぱり黒い髪をたらした須田で、私はおかしくて思わず声を出して笑ってしまった。

「どうしたんだよ」

「気持ちのいい夜だったから」

私は思ってもいない言葉を言ってしまい少しあわてたが、須田は笑って、そうか。と言うと、おそろいの学校指定のかっこ悪いスニーカーを、私のスニーカーの隣に並べて裸足になった。


 そしてそれ以上何も聞かなかった。


 私たちは映画や、本の話、それからオウムのことなどを少しずつ話した。

その間も須田の足はしっかりとプールの中に突き刺さっていて、淡い血が出ていたすねも、黒い水に飲みこまれていた。

 そして私はそのまま、須田の薄い唇にキスをした。須田はすごく変なんだね。

私が言うと、君もすごく変わっているよ。と彼はゆっくり答えた。

私はもう一度顔を近づけると、須田の唇を少し噛んで、あの淡い鉄の味を確かめると、満足してプールから足を引き抜いた。

 スニーカーを履いてしまうころにはもう、私の脳は眠くてたまらなかったらしく、うまくさよならも言えなかった。

はやく家に帰りたかったし、柔らかすぎるベッドで長いオウムの夢を見たかった。

 口にはまだ須田の血がうっすらと残っていて、その味を確かめながら、なんとか自転車を走らせた。


 空はもう少ししたら、西のほうからしだいに明るくなるはずだった。色とりどりの羽を持った鳥は、朝が来る前に急いで、私の名前をただただ、あの少し高い声で繰り返し叫ぶのだ。

                 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 未成年のタバコなんで自慢するの。不快だなあ 日本人かと疑問さえ感じる。 いらない描写。
[一言] はじめまして。 遅めの初潮を迎えた揺れ動く多感な少女の心がとてもよく伝わる作品でした。 雰囲気も凄く独特で、これからもこの空気を持って執筆して頂ければと思います。 ただ、改行が無さすぎてせっ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ