学校の裏事情
「やぁ、こんにちは! ボクは理科室の幽霊だよ!」
美咲の作業の手は一旦は動きを止めたものの、その声を見事に無視した。
なぜなら、美咲は目の前にある三十個近いメスシリンダーやビーカーを、いかに効率よく理科準備室に片付けるか悩んでいたからだ。
頭の中で、片付けのシミュレートを何度も何度も繰り返す。
「ちょっと、無視しないで!お姉ちゃん」
「ビーカーとピペットを三つずつ、理科準備室に運ぶとすると……」
「聞いてる? 聞いてないよね? おーい、聞いてー」
あまりにしつこいので、両手にビーカーを持ち渋々と振り向く。
ただでさえ理科教師に実験後の片付けを押し付けられて苛々しているのに、こんな冗談を言うクダラナイ奴は誰か!
怒鳴りつけようかという勢いで振り返ったものの、そこにいたのは、幼稚園ぐらいの男の子。陽だまりのような笑みでこちらを見つめている。
なんだ子供か、と美咲は思った。怒りの矛先をどこに向ければいいか迷い、割れんばかりにビーカーを机の上に叩きつける。クラスの男子だったら「バカなこと言わないでさっさとあっち行け!」とビーカーを投げつけていたところなのに。
それにしても、子供の癖にタチの悪い冗談を言う。
美咲は極力笑顔がひきつらないようにして、男の子に向き直った。
「キミ、迷子? お姉ちゃんをからかっちゃダメだよ? 理科室の幽霊なんて、どっから思いついたの?」
「キミじゃない。理科室の幽霊だってば!」
「お姉ちゃんは、これを片付けることに忙しいの。キミのお母さんは? 今日って授業参観日だったけ……誰かの弟さん?」
脳内でカレンダーをパラパラめくり、瞬時に今日が授業参観ではないことを確認してから、美咲は言い直した。
「うちの中学校の附属幼稚園から迷い込んできたのかな?」
「違うよ。お母さんもいない。それより、ビーカーとかはボクが片付けるから、ボクの話聞いて」
美咲は、いいよ自分でやるから、と言いながらまたビーカーを手に持った。その瞬間、美咲の手からビーカーが離れ、羽でも生えたように軽々と宙に浮いた。机の上に置いてある使い古されて薄汚れたメスシリンダーたちも音も立てずに宙に浮いた。美咲はかすかに驚きの声を漏らし、後ずさる。同時に、教室の右端にあった理科準備室の扉が勢いよく開き、宙に浮いたガラス備品たちは、暗い準備室の中に吸い込まれるようにして運ばれていった。
その間、男の子は手足一本動かさなかった。「どう?ボクのこと信じた?」とでもいうように相変わらず太陽のような微笑を振りまいている。
「……これ手品!?」
「お姉ちゃんわざと天然ボケキャラやってるでしょ。いい加減信じれば? 手品じゃなくてボクの能力。ね? さっき理科の時間で居眠りして怒られて片付けを命じられたお姉ちゃん」
「なんで知ってんの」
「理科室にずっといるから」
「理科室の幽霊だからずっとここにいるの?」
そう、と男の子は頷いた。嘘を言っているようには見えない。
(――馬鹿馬鹿しい)
幽霊などという非現実な物は名前を聞くだけで吐き気をがする。精霊とか幽霊とかはいるはずがない、いていいわけがない。そんな物は、世界の物理法則を発見したニュートン様やアインシュタイン様に失礼だとさえ思っていた。
とんだ生意気な子もいたものだ。
鼻で笑い飛ばしたかったが、相手は小さい子供なので、改めて極力優しい声で尋ねる。
「あたしに何の用かな? キミのお遊びに付き合ってる暇はないんだ。授業始まっちゃうから早く行きたいんだけど」
「ふふっ、お姉ちゃん、なにげ動揺してるでしょ? 次の時間はお昼休みで、授業なんてないよ。……他の人には動揺しなかったのに」
男の子はクスッとおかしそうに笑った。この年齢の男の子でクスッとおかしそうに笑う子なんて見たことがない。
だいたい、他の人とは誰のことを言っているのか。
美咲が顔をしかめたのを見て、男の子はごめんごめんと言って咳払いをした。
「いや、うん、実はね、お友達になってほしいんだ」
「は?」
男の子は予想外に真摯な眼差しをしていた。美咲は、思わず一歩後ずさりする。木製の床がきしんだ音をたてた。
この男の子の目的がちっともわからない。
ここである考えが美咲の頭をよぎる。床が腐るほどの古い教室だ、幽霊が取り憑いてもおかしくないかも知れない。
(……ダメ。こんな得体の知れないものを信じちゃ)
「ボク、ずっとここにいるから、友達が一人もいなくて。理科室の備品とは意思疎通はできるけど、どうも奴らは攻撃的な態度でさ」
まぁそれもしょうがないんだけど、と微かに男の子は呟き、戸棚に鎮座している蛙のホルマリン漬けや、窓の横にずらりと並べてある顕微鏡を一瞥した。あの備品に意思があるのだろうか、と美咲は訝る。
(蛙が内臓丸出しのまま、「やぁ、幽霊君、こんにちは!」なんて言ってる姿は想像したくもない……)
「お姉ちゃんに頼んだのにはちゃんと理由があるんだ。お姉ちゃん、精霊とか幽霊とか、そーゆーの信じてないでしょ?」
「……当たり前じゃない」
ふーん、と男の子は意味ありげに呟く。まぁそれもそうか、と納得しているような雰囲気でもあった。さっきからその態度が気に食わない。美咲はなによ、とばかりに睨みつける。
手は震えていた。
そんなこともなんのその、男の子はさらっと、美咲にとって地雷とも言える言葉を吐いた。
「お父さんが幽霊に殺されたかも知れないから?」
男の子が言った言葉は、美咲にとって全然予期していないものではなかった。それは、昔の曖昧な記憶のどこかに、この男の子に会った記憶があったからだった。
だが、意思とは関係なしに、床がぐらついたような感覚に襲われる。もはや手どころではない、全身がガタガタと音を出して震えているようだ。
美咲は唐突に、昔のことがフラッシュバックした。目の前が真っ白になり、今まで曖昧だった記憶が呼び覚まされる。
――車を運転している父の背中に、突然、ふっと長髪の女が憑いた。幾年か前に、父によって祓われたはずの、見覚えがある女。
後部座席に座っていた美咲は、はっと息を呑んだ。
その女が何をせんとしているかは、常に祓い屋の父のそばにいる美咲にとって、容易に想像できるものだった。
「やめ……「死ね」
美咲がやめてという前に、女が地の底から響いてくるような低い声で、死の宣告をした。
その瞬間、車が異常にカーブをし始め、美咲は座席に頭を叩きつけられた。目の前に、大型トラックがクラクションを引きつれやって来る……。
その女は、事故が起こる瞬間に、美咲のほう向いてニヤリと笑った――
「お祓いの仕事をしていたお姉ちゃんのお父さんは、交通事故で死んじゃったんだよね? でもそれは多分、お父さんが昔、祓い損なった幽霊が、車の運転をしていたお父さんに取り憑いて、そういうふうに仕向けた。多分、祓われかけた怨念だと思う」
男の子は、ふ、と上を向いて言葉を区切った。
美咲はよく、泣きそうになったときに上を向く。ひょっとしたら、この男の子も泣きそうなのかなと思ってみたりした。
「その幽霊は、お父さんを操って、車が対向車線を走っている大型トラックに突っ込むように仕向けた――そうでしょ? お姉ちゃん見たんだよね、後部座席から。でもお姉ちゃんは後部座席に座ってたから、奇跡的に助かった」
「な、何? いきなり現れておいて、何言うかと思ったら」
口からでた強気な言葉は、思いのほか震えていて弱々しかった。
男の子は長く息を吐き美咲を見る。そして、心の準備をするように十分に間をとってから、
「ボクも見てたよ、その時のこと」
お姉ちゃんのお父さんの守護霊だったからね。そう言って男の子は笑った。
(男の子に会ったことがあるっていう記憶は、この子お父さんの守護霊だったからなんだ)
「ボクはあの後、怒りが抑えられなくて、お父さんを殺した幽霊を罰した。罰したってか、まぁ、霊界に送り返した、っていうか。そのことは霊界では禁じられてるから、ボクはしばらく逃げ回ったんだけど……まぁ、いろんな訳があって、理科室の幽霊になった。うんまぁ、ここから離れられないから地縛霊とも言うけど」
「まさか……本当に?」
「ホント。お姉ちゃん、あのときから、幽霊のこと本当は見えるのに、見えないふりしてたでしょ?」
骨の髄まで完全に見透かされている、と一瞬錯覚してしまったほどに、男の子の言っていることは全て真実だった。
美咲は幽霊を見ることができる。
今だって、窓の外に見える青空の下、校庭で一人でサッカーをしている少年が見えるし、鉄棒を使ってずっと逆上がりをしている女の子が見える。
見ようと思えば他にもたくさんいる。
全員、幽霊だ。
さきほどに男の子が言った「他の人には動揺してないのに」という言葉は、彼らのことを指していた。
美咲は初めから全部知っていた。
だが、まさか男の子が『父の敵討ち』だったとは思いもしなかった。本当に敵討ちなら、美咲にとってこの男の子は感謝すべき存在なのだ。
だが、動揺からか、思いとは裏腹に、見当違いな言葉が口からでてくる。
「そうよ、あたしは見えてた。……でも幽霊なんて、皆悪い奴じゃん。人に憑いたりしてさ、自分ももとは人間だったくせに迷惑ばっかりかけて」
「お父さんは祓い屋で、悪い幽霊しか見ていないから、お姉ちゃんはなおさらそう思うのかもね。確かに幽霊は悪いのが多いよ」
男の子はそう呟いて苦笑した。でも、とさっきまでの言葉を塗り替えるように、
「悪い奴ばっかじゃない。自分で言うのもなんだけど、ボクみたいにね、いい奴もいる。それを教えるためにお姉ちゃんに友達申し込んだんだから」
それだけじゃないけど、と言って男の子は、一瞬険しい顔をするが、すぐに笑顔になり、
「見るに見かねた。お姉ちゃんずーっと辛そうだったもん。多分幽霊なんて見たくないってずっと思ってたでしょ」
ニッコリと笑って、その小さな右手を差し出してきた。どうしたものかと美咲が逡巡していると、
「友達、なってくれるよね? いーっぱい教えたいことあるんだ!」
友達。
ずっと憎んできて、さらには見ぬふりをしてきた幽霊とトモダチ。
まだ現実と受け入れられない部分もあるのも確かだ。
だが。
(女子中学生がちっちゃい男の子の笑顔に弱いのは世の常よ!)
美咲は勢いよく右手を出し、グイッと男の子の手を握った。少し意表をつかれたようだが、男の子も、美咲に負けないぐらいの力で握り返した。
幽霊とは思えないぐらい、力強くて、温かい手だった。
「なにげ、お姉ちゃんは霊力が強いしね! 人のためにできることもたくさんあるよ?」
「考えとくよ。そういえば……えーっと、なんて呼べばいい?」
「名前はないけど。いや、あったんだけど、なんつーか、忘れたみたいな」
「んじゃ、リカでいっか。理科室のリカ! よろしくね、リカ」
「いっかって。女の子みたいな名前じゃん。まぁ、いいけど」
リカは照れくさそうに頭をかいた。なんだかんだで、友達なんてものを作るのは初めてで、どう対応をしていいのかわからないようだった。
「じゃあさっそく、ボクがここ、理科室を案内するよ!」
さっきまでのシリアスな雰囲気を吹っ切り、リカは人体模型に向かって美咲の手を引いて走り出した。
「ちょっ! 昼休み終了のベル、もう鳴っちゃったんですけど!?」
(てゆーか人体模型で何するの? 嫌な予感しかしない!)
と思いつつ、何か吹っ切れたように(投げやりと言ってもいいかも知れないが)、リカとそっくりの太陽のような笑顔を見せる美咲だった。
さっそく、波乱の幕が半分上がりかけているとも知らずに。
放課後。
「人体模型が普段どんなことを思っているのか、ボクが教えてあげる、とかなんとか言っちゃってさ。とんだひどいめにあった……」
職員室からの帰り、美咲はそんなことを呟いていた。外はすでに闇が降りて、廊下も薄暗い。まるで幽霊でもでそうな雰囲気だが、実際に昼休みに幽霊に会ったのでなんとも思わない。
美咲は昼休みの間中リカに振り回され、午後の授業をすっぽかし、教師にこっぴどく叱られた。
実は教師の話なんて一言も聞かずに、美咲はリカのことを考えていた。考えて見れば、なぜこの時期になってリカが美咲に声をかけたのか、なぜリカが理科室にいることになったのか、何一つわかっていない。
「アイツなんか、蛙と一緒にホルマリン漬けになればいいんだ」
ちょうど理科室の前を通ったので、これみよがしにそんな悪態をついてみた。なんか反応あるかな、とちょっと期待してみたりもしたが、目の前の扉はうんともすんとも言わないのでそのまま素通りしようとした。だが、
「ちょっと待ってお姉ちゃん! 緊急事態!」
突然切羽詰まったようなリカの声が聞こえたかと思うと、突然、扉が勢いよく開き、ぬっと小さい手が伸びて美咲の右腕の袖口を掴んだ。
美咲が何、と思った瞬間には扉の中にひきずりこまれて、目の前にはリカが立っていた。
「何、どうしたの」
「だーかーら、緊急事態だってば!」
だだをこねている子供に見えるなー、と悠長なことを考えながらリサは顔を上げた。
夜の理科室は真っ暗で、全ての輪郭がぼやけて見える。とりあえず扉を閉めてから、美咲は壁に手を伸ばし、手探りで蛍光灯のスイッチを押した。
そこで初めて理科室の異変に気づいた。
ビーカーが、メスシリンダーが、スポイトが、ありとあらゆるガラスの備品が宙に浮き、理科室の天井にいっぱいになっていた。それはもう、蛍光灯の光が遮られるぐらいに。
まさか、と思い教室の右端にある理科準備室の扉に目を走らせる。普段鍵のかかっているはずの準備室が開け放たれていた。確かに昼休みに、そこの鍵はかけたはずだった。
第一、こんなことをするのは一人しかいない。
「またリカの仕業!?」
「違うよ、ボクそんなことしない! 勝手に暴走しだしたんだ! 前にもこんなことが」
「あったの!?」
「しょっちゅうだけど、こんな規模の大きいのは初めて。理科室の反乱だ」
反乱なんてあるわけがない、と以前の美咲は一蹴していただろうが、昼休みを経た今、これは現実と受け止めなければならない。
先生を呼ぼうか、と扉を後ろ手で開けようとしたが、瞬間接着剤でも塗られたように少しも動かない。
さっき閉めなきゃよかったなんて後悔してももう遅い。
目の前では、ガラス備品が宙に浮いただけにとどまらず、戸棚から塩酸や水酸化ナトリウム、さらには水素や酸素のボトルまで勝手に飛び出してきた。人体模型は勝手に歩き出し、顕微鏡はガタガタと音をたてて棚から落ちていく。
めちゃくちゃだ。
「これからどうなるの!?」
「あれらが勝手に自爆して理科室がめちゃくちゃになる」
「止める方法は?」
「全部、元ある場所に無理矢理押し戻す!」
そう叫びながらリカは、両手を宙にかざした。何をするのかと思った瞬間、今や宙いっぱいに広がった備品たちが、戸棚やら準備室やらに次々と吸い込まれていく。
リカによるお片づけが開始したらしい。
「あの幽霊なんだよ、こんなことをしてるのは! お姉ちゃんのお父さんを交通事故に巻き込んだ幽霊! お姉ちゃんを殺そうとしてる」
「なんで!」
「ボクが知るわけないでしょ、悪霊のすることはボクには理解できないね」
リカが片付けるよりも速く、あらゆるところから備品が次々と飛び出していた。
それらは右へ左へ好き勝手に飛び回り、美咲たちを挑発しているようにも見える。
ガラス備品はぶつかりあって派手な音を立てて割れ始めていた。
蓋が開いて垂れ流し状態になっていた塩酸のボトルを閉めながら、美咲は振り返った。
「それに、そいつはリカが霊界に送り返したんじゃないの?」
「霊界なんてすぐ抜け出せるところだよ! ヤツは今、この学校に取り憑いて、学校を壊そうとしてる。ボクはもう、守護霊の時ほど力はないから、アイツを霊界にまた送り返すことができない。とりあえず学校の破壊は各教室の精霊が食い止めてたんだけど……どうやら昼休みの話を嗅ぎつけられたらしい、理科室に目をつけられた!」
あの幽霊の狙いは、お姉ちゃんのまわりの物や人間を破壊することなんだよ、とリカは叫んだ。
もはや理科室は、ガラスの割れる音やら、水が噴出す音、水素の爆発音で恐ろしいほどの轟音になっていた。教師が来ないことが不思議だが、それもあの幽霊が何か細工をしているのだろう。
もはや美咲たちだけでは抑えられない状態なっていた。美咲は、人体模型を元の場所に戻し、汗だくのリカに向き直った。
さきほどと違い、頭の中はいたって冷静沈着だった。
「リカ、その幽霊の場所はどこ?」
「多分この階のどこか……ってお姉ちゃん、何する気?」
「祓ってくる! リカ、それまで食い止めてて!」
そういうやいなや、美咲は扉の前に重なっている水槽の山を押しのけ、理科室を飛び出した。
リカの引きとめる声が聞こえたが、構いやしない。
全力で走って、手当たり次第教室の扉を開ける。音楽室、3年A組、B組、C組、・・・
薄暗くてよく見えない上に、もともと体力もなく、転びそうになったり、ぶつかりそうになったりもしたが、必死に走った。
(自分はあの事故以来ずっと、守られてたんだ。リカや、他の精霊たちもこの学校……あたしを守ってた。あたしは何一つ現実に目を向けてなかったんだ)
少し先に、光が漏れている教室が見えた。
図書室。
唯一電気のついていたその教室の扉を開けると、女子の図書委員が一人、カウンターに座って本を読んでいた。おとなしそうな、いかにも図書委員によくいそうな、女の子。
息を整えながらゆっくりとカウンターまで歩き、尋ねた。
「きみ、図書委員じゃないよね? 今日は図書室開放日じゃないもの。そんな漫画みたいなことするなんて、アンタ、本の読みすぎじゃないの?」
図書委員は意表を突かれたようだった。だが、すぐにニヤリと笑い、長髪の白い服をきた女へと姿を変え、持っていた本をカウンターに置いた。
「ふーん? よくわかったね、私が。だがお前に何ができる? お前の父はそりゃよくできた祓い屋だったがね、現実から逃げたお前は何もできないだろう?」
うん、できないよ、と答えたいのを堪えて精一杯、女を睨んだ。
正直今も逃げ出したいが、今逃げたところで状況も何も変わらない。美咲自身も何も成長しない。だいたい、図書室の扉は理科室と同様に開かないように女が細工しているのだろう。
「祓い屋の娘を甘くみるな年増女! あたしが今更怖がるとでも思った?」
女は嘘くさい笑みをたたえたまま、カウンター越しから美咲の首に勢いよく手をかけた。
悪霊と守護霊とじゃ手の感触だって違う。リカの手はもっと温かかった。
「口だけの小娘がナマ言うんじゃないよ。今だって怖いんだろう? ほら、」
女は手に力を入れた。息が苦しく、声もでない。このままでは死ぬ。
美咲は頭の中で必死に父の言葉を思い出していた。リカのためにも、今まで美咲を守ってくれた霊たちのためにも、死ぬわけにはいかない。
だが、呼吸が安定しないため思考もうまくまとまらない。
(思い出せ、父は封印の仕方をあたしに教えたはずだ。呪文の中では比較的短かった封印の呪文、祓うことより封印は簡単で確実な方法のはず……あたしだって霊力があるはずだ、リカのお墨付きの!)
急に、女は美咲の首から手を離した。
「お前は殺さないよ。お前のまわりから確実に殺していく。お前は最後に殺してや――」
女が言い切る前に、美咲の口は父から教えてもらった呪文を唱えていた。
父ももしかしたら、職業柄、娘がこういうことになるのを予期していたのかも知れない。
空気のぬけるような音と共に、女は急速に縮み、カウンターの上の一冊の本へと吸い込まれていった。
「誰も殺させないよ、あたしのまわりの人間は」
女を封印した本を持ち上げて、美咲は呟いた。
「美咲、やったね! って美咲大丈夫!?」
理科室に戻るなり、リカは飛び跳ねるようにして美咲のもとへ走ってきた。
理科室の備品は元通り、これもリカの力だろう。
対する美咲は、封印でかなりの力を使い、不安定に右へ左へと漂うようにして歩いていた。
「あぁうん、大丈夫。ちょい疲れた」
そう言いつつ、黒板の隣の丸椅子へと崩れるように腰掛け、リカに女を封印した本を渡した。
「ヤツを封印した物だね? うん、だいぶ強力な封印だ。やっぱ美咲強いよ!」
「いつからリカはあたしに向かって呼び捨てするようになったの……」
「まぁいいじゃんいいじゃん」
ニッコリとリカは笑い、本を宙に浮かせて一瞬で燃やした。灰がひらひらと木製の床へと舞い落ちる。
(一応、図書室の物は公共の物なんだけど……ま、いっか)
「ごめんね、あたしのせいでイロイロ迷惑かけちゃって」
「いいよ、アイツが悪いんだ、全部。それももう燃やしたからいないしね」
「さっき言ってたけど、他にも幽霊って教室にいるの?」
「いるよ。伏せておくつもりだったんだけど、ことがことだったし、真実話したほうがいいかなぁって。でもあいつらは美咲に姿を見せないよ、多分」
ふーん、と言って美咲は理科室の天井を見上げた。リカは相変わらずニッコリ笑っている。
しばらくの沈黙ののち、
「まだあたしたち友達?」
「何、友達って有効期限でもあるの? 当たり前じゃん、友達だよ」
「いっぱい迷惑かけたのに?」
「何、弱気になっちゃって。いつもの強気キャラは?」
「いや、別に。……よかった」
「何がどうよかったのか、ボクは知りたいけどね」
疲れたふりをして美咲はリカを無視した。
「また無視?」
「ぅおっし! 付き合っていくぞ!」
この幽霊が見えてしまう特殊能力と。隣でリカはまだ笑っていた。
ご意見。ご感想。お待ちしております。
別に一言感想でも構わないです。
「おもしろかった」「つまんなかった」
とりあえず見たよ!という足跡を残していただけたら嬉しいなぁとか思ったり。
アドバイスはもっと嬉しかったりします。