影を売った聖女は、断罪の夜に微笑みました~あなた方が捨てたのは、光そのものでしたのに?~
「シャルロッテ・エヴァンス。お前との婚約を破棄する」
王城の大広間。無数のシャンデリアが煌々と輝く夜、王太子アルベルトの声が高らかに響き渡りました。
「そして聖女の座も剥奪する。罪状は――魔物討伐への非協力、そして闇の術に手を染めた背信だ」
居並ぶ貴族たちのざわめき。刺すような視線が、わたくし一人に集まります。
わたくしは、静かに一礼いたしました。
(――ふぅん。背信、ですって)
表向きは、感情を読ませない切れ長の瞳を伏せたまま。けれど内心では、前世の記憶がぽつりと呟いておりました。
(闇の術に手を染めたって……そりゃまあ、影を扱う仕事はしてますけど。それ、あんたらの影なんですけどねぇ)
アルベルトの隣で、亜麻色の巻き髪を揺らす少女が勝ち誇った笑みを浮かべています。対抗聖女を名乗る子爵令嬢、ミレーユ。
「まあ、シャルロッテ様。そんなに睨まなくても……わたくし、あなたのぶんまで頑張りますから」
愛らしい声で、しっかりと毒を含ませてくる。
(あなたのぶんまで、ねぇ。……その浄化、九割がた私の仮面補助なんですけど。素で言ってるならある意味大物だわ、この子)
アルベルトが冷ややかに続けます。
「お前の陰気な仕事はもう要らん。ミレーユの光があれば十分だ。……お前の影は、もう我が国には不要だ」
光。
その一言に、わたくしは思わず――内心だけで、噴き出しそうになりました。
(光ですって? あの子の影、まるっと私が預かってるんですけど。この国の結界を五年間支えてきたの、誰だと思ってるのかしら)
大広間の隅で、白髪をきっちり結い上げた老女が、震える拳を握りしめているのが見えました。ドロテア。わたくしの労苦を、唯一間近で見てきた人。
泣かないで。
わたくしは、目線だけでそう伝えます。
そして――ゆっくりと顔を上げ、王太子を真っ直ぐに見据えました。
「かしこまりました」
声は、あくまで穏やかに。
「では――お預かりしていたものを、すべてお返しいたします」
その言葉の意味を、この場の誰も、まだ理解してはいませんでした。
◆◇◆
――時を、わずかに巻き戻します。
断罪の前夜。王太子の私室では、二つの影が身を寄せ合っておりました。
「ねえ、アルベルト様。本当に、明日でいいのですか?」
ミレーユが甘えた声で、王太子の腕に指を絡めます。
「ああ。あの陰気女さえいなくなれば、すべてが上手くいく」
アルベルトは満足げに頷きました。
「あいつは何もしていない。ただ暗い顔で城の隅をうろつき、木くずの匂いをまき散らしているだけだ。それに引き換え、ミレーユ。お前の浄化魔法の輝かしさときたら」
「まあ、嬉しい」
ミレーユがくすくすと笑います。
「あの女、いつも仮面なんか彫って……気味が悪いったら。あんなもの、なんの役に立つのかしら」
「捨ておけ。明日で終わりだ」
二人は知りませんでした。
その『気味の悪い仮面』こそが、王都全域を魔物から守る結界の正体であることを。
そして――彼ら自身の『影』もまた、その仮面の中に、静かに封じられていることを。
魔物は、濃い影に殺到する。
影を返された者は、格好の餌になる。
彼らは今まさに、自らの命綱を、自らの手で切り落とそうとしていたのです。
読者の皆さまだけが、それをご存じですね。
――さて。舞台を、断罪の夜へ戻しましょう。
◆◇◆
「お預かりしていたもの……だと?」
アルベルトが眉をひそめます。
わたくしは懐から、一枚、また一枚と、薄い木片を取り出しました。無数の――仮面契約書。わたくしが夜な夜な工房で彫り上げた、契約の証です。
「これは、契約魔法の証。この国の重要な方々の『影』を、わたくしが肩代わりしてお預かりしている、その記録でございます」
床に並べていくたびに、契約書がほのかな光を帯びていきます。
「アルベルト王太子殿下」
光。
「騎士団長ヴェイル様」
光。
「財務大臣ゴードン様」
光。
「そして――ミレーユ・ド・フォンテーヌ様」
最も強い光が、ミレーユの足元へと伸びました。
「な……なんですの、これ」
ミレーユの顔から、笑みが消えます。
契約魔法が可視化した『影値』の糸が、大広間中の要人たちから、わたくしへと繋がっているのが浮かび上がりました。何十本、何百本もの、細い光の線。
貴族たちがどよめきます。
「あれは……影の肩代わり契約か?」
「まさか、聖女様がお一人で、これほどの……」
わたくしは、ゆっくりと一枚の仮面を手に取りました。ミレーユの影を封じた、白い仮面。
「ミレーユ様。あなたの浄化魔法――さぞ、お美しかったことでしょう」
「な、何を……」
「けれどそれは、あなたの影をわたくしが預かり、魔力を肩代わりしていたからこそ成せた業。……素のあなたには、魔物一匹祓う力もございません」
「嘘よ! でたらめを言わないで!」
わたくしは微笑みました。ただ、静かに。
「契約は、いつでも一方的に解除できると――申し上げましたでしょう?」
そして。
両手に力を込め、仮面を――
パキ、と。
乾いた音が、大広間に響きました。
その瞬間。
封じられていた濃厚な影が、糸を伝って一斉に、本人たちのもとへと還っていきました。
五年間、隠蔽され続けた、無防備な影値。
それが今――王都全域に、露出したのです。
◆◇◆
遠く、城の外から――地鳴りのような咆哮が響きました。
「な、なんだ、今の音は」
アルベルトの顔が、初めて強張ります。
窓の外。王都を囲む夜空に、無数の赤い光点が浮かび上がりました。近づいてくる。まっすぐに、この城へと。
魔物です。
濃い影に殺到する習性を持つ、あの魔物たちが。
「結界は……っ、結界はどうした! なぜ魔物が王都へ!」
騎士団長が青ざめて叫びます。
わたくしは、静かに答えました。
「結界を維持していたのは、わたくしの仮面契約でございました。皆さまの濃い影を辺境の隔離塔へ逃がし、この王都を『影の薄い、狙われぬ土地』に見せかけていたのです」
「そんな……」
「その仮面を、たった今、砕きました。ですので――皆さまの影は、あるべき場所へ戻りました。ただ、それだけのことでございます」
ミレーユが、へたり込みます。手をかざしても、あれほど輝いていた浄化の光は、もう欠片も生まれません。
「出ない……浄化が、出ないわ……! どうして、どうしてなの!?」
「素のあなたが、そうであったというだけのことです」
アルベルトが、わなわなと震えながら、わたくしを見ました。
その瞳に、遅すぎる理解の色が浮かびます。
「まさか……お前の、陰気な仕事というのは……」
「ええ」
わたくしは、深々と一礼いたしました。
「この国の光を、裏側から支える仕事でございました。――ですが、もう不要とのことでしたので」
(失ってから気づくって、ほんとにあるんですねぇ。前世で観たドラマみたい)
「お待ちください、シャルロッテ様!」
駆け寄ってきたのは、ドロテアでした。涙で顔をくしゃくしゃにしながら。
「お嬢様……いえ、シャルロッテ様。あなた様は、どこへ行こうとも光でございます。どうか、どうかお身体だけは……」
「ドロテア。長い間、ありがとう」
わたくしは、彼女の手を握り返しました。この五年で、たった一つの、本物の温もり。
「わたくしは、大丈夫。……ここではないどこかで、ちゃんとやり直しますから」
背後で、アルベルトが叫んでいます。
「待て、シャルロッテ! 行くな、契約を、契約を戻せ……!」
初めて頭を下げようとして、けれどプライドが邪魔をして、言葉は途中で言い訳に変わっていく。
わたくしは、振り返りませんでした。
ドレスの裾を翻し、崩れゆく大広間を後にします。
(さて。仮面師の本領発揮といきましょうか。――ここからが、私の舞台です)
◆◇◆
翌朝。わたくしは、冒険者ギルドの扉を叩いておりました。
煙草と汗と鉄の匂い。荒くれ者たちがひしめく酒場は、王城とは何もかもが違います。
(うん、こういう雑然とした感じ、嫌いじゃないわ。前世の工房を思い出す)
受付で用件を告げると、奥からのっそりと大男が現れました。隻眼に古傷。ギルドマスターの、バルガス・ヘイル。
「ほう。聖女様が、こんな場末に何のご用だ?」
じろりと、値踏みするような視線。わたくしは臆さず、一枚の仮面を差し出しました。
「わたくし、【仮面師】のギフトを持つ者です。他者の影を封じ、隔離し、魔物を誘導する――そういう仕事が、できます」
バルガスの隻眼が、す、と細くなります。
そして、差し出された仮面に指で触れた瞬間――彼の表情が、変わりました。
「……おいおい。こいつぁ、本物か」
「昨夜まで、王都全域の結界を、これで維持しておりました」
「昨夜まで、だと」
バルガスは、ぐるりと酒場を見回しました。今朝から、王都の混乱――魔物の襲撃と貴族たちの狼狽――の噂で持ちきりです。
そして、豪快に笑い出しました。
「はっはっは! なるほどなァ、そういうことか! 城の連中は、宝を溝に捨てたらしいな!」
酒場中の視線が集まる中、彼はわたくしの肩を、ばしんと叩きました。
「気に入った。ウチで働きな、嬢ちゃん。……ただし言っとくが、こっちは身分で人を測らねえ。実力で正当に払う。城のケチな連中とは違うぜ」
差し出された報酬額の見積もりを見て、わたくしは思わず目を見開きました。
(……え、桁ひとつ多くない? 五年間の聖女の給金、実質ゼロだったんですけど)
「破格でございますが、よろしいので?」
「宝には、それ相応ってもんがあるだろうが」
バルガスは、にやりと笑います。
その時でした。
酒場の隅、誰も寄せ付けぬ一角で、黙々と食事をしていた巨躯の男が――ゆっくりと顔を上げたのは。
鈍色の鱗。氷のような銀灰の瞳。
『氷の竜』と恐れられる、Sランク冒険者。
その男が、わたくしを見て――なぜか、耳の先を、ほんのりと赤く染めていました。
◆◇◆
「ガルドじゃねえか。珍しいな、お前が興味を示すたァ」
バルガスが面白そうに声をかけます。
のっそりと立ち上がったその大男は、身の丈六尺を超える巨躯。近づいてくるだけで、周囲の冒険者たちが道を空けます。
無表情。氷のような眼差し。けれど――なぜか視線が、微妙に泳いでいる。
(あら? この人……)
わたくしには、覚えがありました。この竜の血の匂い。この、暴走しがちな影の気配。
「もしや――五年前、竜の影を預けてくださった方でしょうか」
匿名の依頼でした。名も告げず、ただ『眠れぬ夜を、なんとかしてほしい』とだけ。わたくしは請われるまま、その荒れ狂う竜の影を仮面に封じ、静めて差し上げたのです。
巨躯の男――ガルドは、こくり、と小さく頷きました。
そして、口を開き――閉じ、また開き。
「…………」
言葉が、出てこないようです。
強面の討伐英雄が、視線を右へ左へさまよわせ、大きな手を所在なげに握ったり開いたり。
(え、なにこれ。可愛くない……? いや、六尺超えの竜人つかまえて可愛いって、私の目、大丈夫かしら)
たっぷり十秒ほどの沈黙のあと。
ガルドは、ようやく、ぶっきらぼうに言いました。
「……お前の仮面が」
「はい」
「俺の眠りを、守った」
それだけ。
たった、それだけを言うために、彼はどれほど言葉を探したのでしょう。
「あの五年、初めて……ちゃんと、眠れた」
耳の先が、また少し赤くなります。
バルガスが、ぷっと吹き出しました。
「おいおいガルド、お前そんなに喋れたのか。氷の竜が溶けてるぜ」
「……うるさい」
ガルドは、ばつが悪そうに顔を背けます。それから、真剣な眼差しで、わたくしを見据えました。
「城が、お前を捨てたと聞いた。……もし、お前を害そうとする奴がいるなら」
少し、言葉に詰まって。
「俺が、いる」
不器用な、けれど、まっすぐな言葉。
わたくしは、久しぶりに――本当に久しぶりに、心から微笑んでおりました。
「ありがとうございます、ガルド様。……とても、心強いです」
(あぁ、報われるって、こういうことなのね。五年ぶりに、誰かに『いる』って言ってもらえた)
◆◇◆
――それから、ひと月。
わたくしは、王都のはずれに小さな工房を構えました。
窓辺には彫りかけの仮面が並び、床には木くずが舞い、空気には懐かしい木の匂い。前世で夢見た、けれど叶わなかった、自分だけの工房です。
「シャルロッテ、新しい依頼だ。今度は東の隔離塔の影誘導。報酬は前回の倍」
ギルドから顔を出したバルガスが、書類を置いていきます。仕事は引きも切りません。市井の人々は、身分ではなく、確かな仕事ぶりで、わたくしを評価してくれました。
「相変わらず、竜が居着いてやがるな」
バルガスが、部屋の隅で丸くなっている巨躯を見て、にやりとします。
ガルドです。仕事の合間、当たり前のように工房に来ては、静かに座って、わたくしが仮面を彫るのを眺めている。
「……邪魔は、していない」
「そうですね。むしろ、木くずを片付けてくださって助かっています」
「そうか」
ほんの少し、耳が赤い。
(この人、本当に分かりやすいわね。ふふ)
その時、扉が控えめに叩かれました。
ドロテアです。
「シャルロッテ様。……王城から、これを」
差し出されたのは、豪奢な封蝋の押された、一通の書状。
開けば、それは――嘆願書でした。
『魔物の被害、収まらず。結界、いまだ復旧せず。ミレーユの浄化はまるで効かず、アルベルト王太子は責を問われ幽閉。どうか、どうか聖女シャルロッテ様のお力を、今一度――』
わたくしは、最後まで読みませんでした。
(あら。今さら『聖女様』ですって。あんなに『陰気な仕事』って言ってたのに)
ドロテアが、心配そうにわたくしを見ます。
「いかがなさいますか……?」
わたくしは、書状を軽く掲げ、暖炉のほうへ歩みました。
そして、ぱさりと。
炎の中へ、くべます。
嘆願書は、あっという間に、影も残さず燃え尽きました。
「わたくしの影は、もうこの国には不要なのでしょう? ――でしたら、お返しした通りに、ご自分たちで支えてくださいませ」
淡々と。けれど、五年ぶんの静かな痛快さを込めて。
ドロテアが、涙ぐみながら、けれど誇らしげに微笑みました。
「……はい。それでこそ、わたくしの主人でございます」
炎が、ぱちりと爆ぜます。
ガルドが、ぽつりと言いました。
「……次の依頼。俺と、組まないか」
「あら。竜人さんとの共同作業ですか。ふふ、光栄ですわ」
窓の外では、春の陽が、王都の外れの小さな工房を、暖かく照らしていました。
影を売った聖女は、断罪の夜に微笑んで――そして今、ようやく、自分のための光を、彫りはじめたのです。
(さあ、次はどんな顔を、彫りましょうか)




