第8話 『五割の向こう側』
手術は、八時間に及んだ。
赤いランプは、ずっと点いたまま。
私は、椅子に座っているのか立っているのかも分からない。
蒼のお母さんが、何度も祈る。
お姉さんは別室で処置を受けている。
家族の時間が、ゆっくり削られていく。
そして。
手術室のランプが消えた。
心臓が止まる。
扉が開く。
医師が出てくる。
「手術は――成功しました」
世界が一瞬、明るくなる。
でも。
医師は続ける。
「ただし、ここからが本当の闘いです」
感染症。
拒絶反応。
合併症。
言葉が、刃物みたいに刺さる。
「数日は予断を許しません」
成功したのに、安心できない。
五割の向こう側は、ゴールじゃなかった。
ICU。
蒼は眠っている。
管に繋がれ、顔色は白い。
機械の音だけが規則的に鳴る。
私はガラス越しに立つ。
「夏祭り、忘れてないよ」
届かない声で言う。
「浴衣、ちゃんと選ぶからね」
蒼は、動かない。
三日目。
熱が上がった。
四十度近い高熱。
医師の顔が険しい。
「拒絶反応の可能性があります」
また、五割。
助かったはずなのに。
なぜ。
私は廊下で崩れる。
泣き声が出る。
静かな病院の夜に、抑えきれない嗚咽。
「まだ終わらないで」
誰に言っているのか分からない。
神様?
運命?
それとも蒼?
五日目。
容態が急変した。
モニターの音が乱れる。
医師と看護師が駆け込む。
「心拍低下!」
耳鳴りがする。
私は廊下に押し出される。
扉が閉まる。
また赤いランプ。
手術のときより、怖い。
今は祈る言葉も出ない。
ただ、震える。
数分が永遠に感じる。
そして。
モニターの音が、戻った。
静かに、規則正しく。
医師が出てくる。
「一時的に心停止しましたが、蘇生しました」
世界がぐらりと揺れる。
「ただし」
また、その言葉。
「脳への影響が出ている可能性があります」
頭が真っ白になる。
「意識が戻るまで、分かりません」
生きている。
でも。
何かを失ったかもしれない。
五割の向こう側には、代償があった。
一週間後。
蒼が、目を開けた。
ゆっくり。
重そうに。
私は椅子から立ち上がる。
「蒼?」
喉が震える。
蒼の視線が、動く。
私を探すみたいに。
そして。
目が合う。
その瞬間。
泣き崩れる。
「よかった……」
生きてる。
ここにいる。
蒼の唇が、わずかに動く。
声にならない。
私は耳を近づける。
「……なつ……まつり」
息が止まる。
「覚えてる?」
涙が止まらない。
蒼は、かすかにうなずく。
でも。
その後の言葉で、世界が止まる。
「……名前、なんだっけ」
胸が、裂ける音がした。
医師の言葉がよみがえる。
脳への影響。
蒼は私を見ている。
優しい目で。
でも。
思い出せない。
「ごめん」
蒼がかすれた声で言う。
「分かんねえ」
私は、笑う。
必死に。
泣きながら。
「いいよ」
喉が焼ける。
「また、好きになってもらうから」
蒼は少し驚いて、微笑む。
「……そういうの、嫌いじゃない」
涙が止まらない。
五割の向こう側。
命は、繋がった。
でも。
記憶の一部が、消えた。
私はまた、最初から。
好きになる。
何度でも。
蒼が、夏祭りまでに。
もう一度、私を好きになりますように。




