第5話 『目を覚ました君は、春を覚えていなかった』
それから三日。
蒼は、目を覚ました。
朝、担任から連絡が来た。
「藤原が意識を取り戻した」
その一文で、心臓が跳ねる。
急いで病院へ向かった。
息が切れる。
怖い。
でも、会いたい。
病室のドアを開ける。
蒼は、ベッドに起き上がっていた。
顔色はまだ悪いけれど、目は開いている。
「……蒼」
声が震える。
蒼はゆっくりと視線を向ける。
そして――
少しだけ、困ったように笑った。
「えっと」
その間が、嫌な予感になる。
「……誰だっけ」
世界が、止まった。
耳鳴りがする。
「……冗談だよね」
蒼は首をかしげる。
「ごめん。頭、ぼーっとしてて」
医師が説明する。
「急変時の影響で、一部の記憶に混乱があります」
一部。
その“範囲”を、聞くのが怖い。
「直近の記憶が抜け落ちている可能性があります」
直近。
春。
入院。
そして――
私。
「朝倉……さん?」
ぎこちない呼び方。
胸が裂ける。
「美桜だよ」
なんとか笑う。
「幼なじみ」
蒼は、ゆっくり頷く。
「……ああ」
でも、その目は。
前みたいに、私を知っている目じゃない。
帰り道、足が震えていた。
生きてる。
それだけで奇跡。
そう分かってるのに。
どうしてこんなに、苦しいんだろう。
好きって言った。
あの日。
あの夜。
ちゃんと伝えた。
でも。
覚えていない。
私の告白も。
“好きって言う前に終わったら”って、
あのメッセージも。
全部、春ごと消えている。
翌日、また病院へ。
「文化祭、どうだった?」
蒼が聞く。
文化祭は、昨日終わった。
みんなで動画を撮った。
蒼に見せるために。
「楽しかったよ」
スマホを差し出す。
蒼は画面を見ながら、笑う。
「俺、やっぱ出たかったな」
その横顔は、いつもの蒼だ。
でも、どこか遠い。
「ねえ」
思い切って聞く。
「最近のこと、どこまで覚えてるの?」
蒼は少し考える。
「冬くらいまでかな」
冬。
つまり。
春は、ない。
私が泣いた夜も。
好きって言った夜も。
全部、存在しない。
沈黙が落ちる。
蒼が不安そうに言う。
「なんか、大事なことあった?」
心臓が締めつけられる。
今、言えばいい。
もう一度。
今度は、目を見て。
でも。
もし。
また忘れたら?
また、消えたら?
私は、何回でも耐えられる?
「……ないよ」
笑ってしまった。
最低だ。
「春、始まったばっかりだし」
蒼は安心したように笑う。
「そっか」
その笑顔が、優しい刃になる。
帰り際。
スマホが震える。
蒼から。
“今日さ”
“なんか夢見た気がする”
心臓が跳ねる。
“どんな?”
送る。
少し間があって。
“誰かが泣きながら、好きって言ってた”
呼吸が止まる。
“顔は見えなかったけど”
“すげえ必死だった”
涙が、止まらない。
“バカだよな、俺”
“ちゃんと覚えてやれなくて”
画面が滲む。
指が震える。
“まだ間に合うよ”
送信。
既読。
“何が?”
桜は、もうほとんど散っている。
でも。
春は、まだ終わっていない。
“今度は、ちゃんと起きてるときに言う”
送る。
しばらくして。
“……楽しみにしてる”
その一言が、怖いくらい優しい。
蒼は、覚えていない。
でも。
心のどこかは、消えていない。
だから。
今度こそ。
逃げない。
好きって、ちゃんと目を見て言う。
たとえ、また消えても。
何度でも。
何度でも。
春が終わる前に。




