第3章・第6話 『バトンの行き先』
娘が生まれて、半年。
首がすわり、よく笑い、よく泣く。
家の中は毎日が戦場みたいだけど、同時に宝物箱みたいでもある。
蒼は仕事から帰ると、必ずスーツのまま抱き上げる。
「ただいま」
そう言うと、娘はぱっと笑う。
その笑顔を見るたび、蒼は少し泣きそうになる。
ある日。
蒼が仕事から帰ると、いつもより静かだった。
ネクタイを外しながら、ぽつりと言う。
「今日さ」
少し間を置く。
「赤いランプ、点いた」
胸が小さく跳ねる。
でも、今は違う。
私は黙って聞く。
「若いお父さんがいてさ」
蒼はゆっくり続ける。
「俺みたいに、廊下で固まってた」
あの日の自分と重なったのだろう。
「隣に座った」
静かな声。
「怖いですよねって言ったら、泣いた」
蒼の右手が、わずかに震える。
「俺、あの人の肩、抱けた」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
「あのとき、俺の隣にいてくれた人みたいに」
私は微笑む。
「ちゃんと、バトン渡してるね」
蒼は少し照れたように笑う。
「まだ見習いだけどな」
その夜。
娘が珍しく高熱を出した。
体温計の数字に、心臓が速くなる。
蒼の顔色が変わる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、あの頃の恐怖が戻る。
でも。
蒼は深呼吸する。
「落ち着け」
自分に言い聞かせる。
救急外来へ向かう。
車の中で、蒼は娘の小さな手を握る。
震えている。
でも、声は落ち着いている。
「大丈夫」
何度も繰り返す。
病院。
診察。
結果は、ただの風邪。
大事には至らなかった。
説明を聞きながら、蒼の肩がゆっくり下がる。
外に出ると、夜風が冷たい。
蒼は、娘を胸に抱いたまま空を見上げる。
「怖かった」
正直な声。
私はうなずく。
「うん」
蒼は少し笑う。
「でも逃げなかった」
あの頃と違う。
赤いランプが点いても、立ち尽くさない。
守る側として、前に出る。
家に帰り、娘を寝かせる。
小さな寝息。
蒼は、その横に座る。
「なあ」
私を見る。
「俺、生き延びてよかったな」
その言葉は、何度聞いても重い。
「うん」
「この子の熱で心臓バクバクできるなんてさ」
少し笑う。
「贅沢だよな」
私は隣に座る。
「バトン、ちゃんと渡ってるよ」
蒼は娘の額にキスをする。
「次はこの子が、誰か守るのかな」
未来を想像する目。
震える右手が、そっと小さな背中を撫でる。
傷は消えない。
怖さもなくならない。
でも。
命は、つながっていく。
あの赤いランプの夜を越えて。
今は、温かな寝息が部屋に満ちている。
蒼が、静かに言う。
「春、また来るな」
私は笑う。
「毎年ね」
三人分の鼓動。
そして、いつかは四人分、五人分へ。
バトンは、確かに前へ進んでいる。
赤い光に怯えた少年は、
今、光を灯す側にいる。
春は、何度でも来る。
そして私たちは、そのたびに更新していく。
――つづく。




