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『君がいない春に、桜は咲かない』  作者: 優貴(Yukky)


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第3章・第5話 『小さな手が握る未来』

退院して、一週間。

家の中は、まるで別世界になった。

小さなベビーベッド。

洗濯物はミニサイズ。

ミルクの匂い。

そして、泣き声。

想像していたより、ずっと現実的で、ずっと大変だった。

深夜三時。

オギャア、と元気な声。

私はぼんやりと目を開ける。

その前に、隣の布団が空いている。

蒼が、もう起きている。

「任せろ」

小声で言う。

抱き上げる動きは、まだ少しぎこちない。

右手は相変わらず震える。

でも、しっかり支えている。

ミルクを作る。

量を量るとき、少しだけ慎重になる。

私はベッドから見つめる。

「大丈夫?」

思わず聞いてしまう。

蒼が、振り向く。

「大丈夫」

優しく笑う。

「俺、この子のパパだから」

その言葉に、胸がいっぱいになる。

でも。

育児は、甘くなかった。

寝不足。

不安。

些細なことで、涙が出る。

ある夜、私は限界だった。

娘がなかなか泣き止まない。

抱いても、揺らしても、だめ。

「なんで……」

思わず、声を荒げてしまう。

自己嫌悪で、さらに泣きたくなる。

そのとき、蒼がそっと抱き取る。

「交代」

優しく言う。

蒼は、娘を胸に抱いて、ゆっくり歩く。

「大丈夫だよ」

低い声で、何度も繰り返す。

その声は、不思議と落ち着いている。

娘の泣き声が、少しずつ小さくなる。

私は、涙が止まらない。

「私、向いてないかも」

ぽつり。

蒼が振り向く。

「は?」

少し強めの声。

私はびくっとする。

でも蒼は、ゆっくり言う。

「俺が倒れてたとき」

真っ直ぐな目。

「お前、向いてないって思った?」

首を振る。

「じゃあ一緒」

蒼が笑う。

「初心者なだけ」

震える右手で、娘の背中をトントンする。

「三人でレベル上げ中」

その言葉に、少し笑える。

ある昼下がり。

娘が、初めてはっきり笑った。

ふにゃ、と口角が上がる。

蒼が固まる。

「今、笑った?」

私もうなずく。

「笑った」

蒼の目が、じわっと潤む。

「やば」

小さな声。

「破壊力」

娘の小さな手が、蒼の指を掴む。

ぎゅっと。

震える右手を、迷いなく握る。

蒼が、息を詰まらせる。

「あのさ」

かすれた声。

「この手、嫌いだった」

娘を見つめる。

「でも今は」

ゆっくり続ける。

「この手じゃなきゃ、ここにいなかった」

私はそっと言う。

「うん」

蒼が笑う。

「更新、大成功だな」

夜。

娘を真ん中にして、川の字で寝る。

小さな寝息。

規則的な鼓動。

蒼が、天井を見つめながら言う。

「怖さ、なくならないな」

「うん」

「でもさ」

私を見る。

「守りたいって思えるって、幸せだな」

私は、静かにうなずく。

赤いランプの前で、立ち尽くしていた少年は。

今、泣き声で飛び起きる父親になった。

震える手は、命を支えている。

小さな手が、未来を握っている。

春は、また来た。

今度は、笑い声と一緒に。

三人分の鼓動が、同じ屋根の下で鳴っている。

それだけで、十分だった。

――つづく。

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