第3章・第4話 『産声の前の静寂』
予定日まで、あと三週間。
あの切迫の夜から、私は自宅安静が続いていた。
蒼は仕事を早めに切り上げ、できるだけ家にいる。
料理も、洗濯も、掃除も。
不器用だけど、全部やる。
右手は相変わらず少し震える。
包丁を持つとき、私は少しだけヒヤッとする。
でも蒼は言う。
「大丈夫。俺、二周目だから」
笑いながら。
それでも慎重に、ゆっくり切る。
命を扱うみたいに。
夜。
ベッドで横になると、お腹が大きく波打つ。
ぐにゃり、と動く。
「今、回転した」
蒼が目を丸くする。
「え、そんな分かる?」
「分かるよ」
蒼は、お腹に耳を当てる。
しばらく静かにして、ぽつりと言う。
「怖いな」
珍しく、素直な声。
私は髪を撫でる。
「なにが?」
「守れるかなって」
小さく笑う。
「俺、自分の命もギリギリだったのに」
胸がきゅっとする。
「でもさ」
蒼は続ける。
「生き延びた理由、やっと分かった気がする」
私は黙って聞く。
「この瞬間のためだったら、納得できる」
涙がにじむ。
蒼の目は、真っ直ぐで、穏やかだった。
その二日後。
夜中。
下腹部に、強い痛み。
息が止まる。
時計を見る。
間隔は……十分快。
もう一度。
ぎゅっと締めつけられる。
「蒼」
声をかけると、蒼は一瞬で目を覚ました。
「来た?」
私はうなずく。
蒼の顔色が変わる。
でも、パニックにはならない。
バッグはもう準備してある。
車に乗る。
夜の街を走る。
あの病院へ。
受付。
分娩室へ案内される。
「子宮口、三センチ。まだ時間はかかります」
助産師の声。
蒼は、私の手を握る。
震えている。
「お前が震えてどうすんの」
私が笑うと、蒼は苦笑する。
「制御不能」
痛みの波が来る。
息を整える。
蒼が、必死に数を数える。
「いち、に、さん……」
声が少し裏返る。
それでも、ずっとそばにいる。
長い夜。
何度も押し寄せる痛み。
汗で髪が張りつく。
蒼がタオルで拭く。
「すごいな」
ぽつりと言う。
「命、生まれようとしてる」
痛みの合間に、私は笑う。
「他人事みたいに言わないで」
蒼が涙目で言う。
「だって、奇跡すぎる」
そのとき。
廊下の奥で、一瞬赤い光が反射した気がした。
私はドキッとする。
でも、違う。
分娩室の機器のランプ。
赤いランプは、ここでは“命を知らせる光”。
奪う光じゃない。
蒼も気づいたのか、静かに言う。
「今度は、迎える側だな」
その言葉に、力が湧く。
夜明け前。
「もう少しです」
助産師の声。
最後の力を振り絞る。
蒼が叫ぶ。
「いける!」
右手で、強く握る。
震えながら。
でも、離さない。
私は、叫ぶ。
そして――
静寂。
一瞬の、無音。
世界が止まる。
蒼の顔が青ざめる。
あの日の表情に、ほんの一瞬戻る。
お願い。
次の瞬間。
――オギャア。
高く、力強い産声。
空気が震える。
蒼の膝が崩れた。
「……生きてる」
涙が滝のように落ちる。
「動いてる」
私は泣きながら笑う。
胸に、小さな温もり。
鼓動が、早い。
トクントクンと、確かに鳴っている。
蒼が、そっと指に触れる。
小さな手が、ぎゅっと握る。
震える右手を、しっかり掴む。
蒼が嗚咽する。
「あの日」
涙声。
「俺も、誰かにこうやって掴まれてたのかな」
私はうなずく。
「きっと」
蒼が、娘を見つめる。
「ようこそ」
かすれた声。
「春へ」
窓の外で、朝日が昇る。
長い夜が終わる。
赤いランプの記憶を越えて。
今、ここにあるのは――
新しい命の光。
三人分の鼓動が、同じ空間で響いている。
春は、また来た。
今度は、産声とともに。
――つづく。




