第2章・第8話 『それでも、未来を選ぶ』
十月。
蒼のリハビリは、思っていたよりも長い戦いになった。
右手の震えは、完全には消えない。
ペンを握ると、線が揺れる。
箸も、ときどき落とす。
小さな「できない」が、毎日積み重なる。
けれど。
蒼は、逃げなかった。
リハビリ室。
小さなゴムボールを握る。
「くっ……」
力を込める。
震える。
でも、握る。
私は隣で数を数える。
「あと三回」
「鬼コーチかよ」
息を切らしながら笑う。
笑える。
それが、前と違う。
前は、生きることで精一杯だった。
今は、未来を選ぶために頑張っている。
ある日。
進路指導の先生が病院に来た。
「志望校、どうする?」
蒼は少し考えたあと、言った。
「医学部は……やめます」
空気が止まる。
先生は驚いた顔をする。
私は息を飲む。
蒼は続ける。
「でも、医療の道は行きます」
まっすぐな目。
「医療福祉学部。患者支援を学びたい」
先生がゆっくりうなずく。
「理由を聞いても?」
蒼は、右手を見つめる。
「医者になるのが夢でした」
少し震える声。
「でも、病気になって分かったんです」
顔を上げる。
「治療だけじゃ、救えない心があるって」
静かに続ける。
「夜、赤いランプの前で立ってた人間の気持ちは、医者じゃなくても分かる」
胸が締めつけられる。
「俺は、あの廊下に立ってる誰かの隣に立てる人になりたい」
沈黙。
そして先生は、力強く言った。
「いい夢だ」
蒼は、少しだけ泣いた。
悔し涙じゃない。
選び直した涙。
その夜。
屋上。
秋の空気が冷たい。
蒼が言う。
「怖くないわけじゃない」
私はうなずく。
「うん」
「また再発するかもしれないし」
「うん」
「手も、これ以上悪くなるかもしれない」
胸が痛い。
でも。
蒼は続ける。
「それでもさ」
私を見る。
「未来、欲しい」
その一言に、全部詰まっている。
「俺、ちゃんと生きる」
私は涙をこらえながら言う。
「一緒に」
蒼が微笑む。
「当たり前だろ」
秋の終わり。
検査結果は「寛解」。
完全ではない。
でも、病勢は抑えられている。
医師が言う。
「よく頑張りましたね」
蒼は笑う。
「まだ更新中です」
私は吹き出しそうになる。
でも泣く。
何度泣くんだろう。
それでもいい。
生きてるから、泣ける。
帰り道。
夕焼けがきれいだった。
蒼が、少し照れくさそうに言う。
「なあ」
「なに?」
「俺さ」
一瞬ためらって。
「もしまた赤いランプ点いても」
胸がきゅっとなる。
「今度は、怖いって言う」
驚く。
蒼が続ける。
「強がらない」
「一人で抱えない」
ゆっくり言う。
「お前に頼る」
涙が、止まらない。
「うん」
「何回でも隣に立つ」
蒼が右手を差し出す。
震えている。
でも。
しっかり握り返す。
未来は保証されていない。
夢は形を変えた。
体には傷が残った。
それでも。
それでも。
二人で選んだ未来は、確かにここにある。
蒼が空を見上げる。
「春、来るかな」
私は笑う。
「何回でも来るよ」
物語は、もうすぐ最後の章へ。




