第2章・第7話 『失くしたものと、残ったもの』
再治療から三週間。
強い薬が、蒼の体を削っていった。
髪はほとんど抜け落ち、
体重もさらに減った。
それでも。
検査結果は、ゆっくりと改善を示していた。
「効果は出ています」
医師の言葉に、ほんの少し光が差す。
けれど。
代償は、あった。
ある日。
蒼が言った。
「……右、変だ」
ペンを持つ手が、震えている。
思うように力が入らない。
検査の結果。
薬の影響による神経障害の可能性。
「一時的なこともありますが」
医師は慎重に言う。
「完全に元通りになる保証はありません」
蒼は黙って聞いていた。
医者を目指す人間にとって、
手は、未来そのものだ。
診察室を出てからも、蒼は何も言わなかった。
病室。
窓の外は、もう秋の気配。
蒼は右手をじっと見つめる。
指を動かそうとして、わずかに震える。
「医者、無理かもな」
小さな声。
胸が締めつけられる。
「まだ分からない」
私は言う。
蒼は笑わない。
「手、震えてんだぞ」
その声は、怒りでも悲しみでもなく。
ただ、事実を受け止めきれない音だった。
「なんでだよ」
ぽつり。
「生きたいって頑張ったのに」
涙が、こぼれる。
蒼が泣くのは、いつも静かだ。
声を出さない。
だから余計に苦しい。
私は、ゆっくり言う。
「医者じゃなくてもいい」
蒼が顔を上げる。
「誰かの気持ち、分かる人になりたいんでしょ?」
沈黙。
「それ、手じゃなくてもできる」
蒼の目が揺れる。
「医療研究者とか」
「医療福祉とか」
「患者支援の仕事とか」
言いながら、自分も必死だと分かる。
夢を守りたい。
でも形は変わるかもしれない。
蒼は右手を握る。
「悔しい」
正直な言葉。
「悔しいよ」
私はうなずく。
「うん」
「めちゃくちゃ悔しい」
蒼の声が震える。
「でもさ」
涙を拭う。
「生きてる」
その一言が、重い。
「命は残った」
震える右手で、私の手を握る。
力は弱い。
でも、確かに温かい。
「これで、また更新だな」
かすれた笑い。
私は泣きながら笑う。
「代償付きプランだね」
「高ぇな」
「でも解約不可」
蒼が、やっと少しだけ笑う。
数日後。
リハビリが始まった。
指を一本ずつ動かす練習。
ボールを握る練習。
小さな動き。
小さな進歩。
蒼は歯を食いしばる。
「二周目はハードモードかよ」
私は言う。
「経験値高いからいける」
蒼が息を吐く。
「ラスボス誰だよ」
「不安」
即答する。
蒼が笑う。
「それは強敵だな」
ある夕方。
蒼が言った。
「医者じゃなくてもさ」
私は振り向く。
「俺、生き延びた理由、無駄にしたくない」
目がまっすぐだ。
震える右手を見つめる。
「この手が完璧じゃなくても」
顔を上げる。
「誰かの手、握れるなら」
涙が溢れる。
「十分だよ」
蒼は小さくうなずく。
「じゃあ、方向転換な」
未来は、少し形を変えた。
夢は、修正された。
でも。
消えていない。
失くしたものはある。
でも、残ったものもある。
命。
覚悟。
そして。
何度でも好きになるって決めた心。
蒼が言う。
「なあ、美桜」
「なに?」
「俺、まだ飛べる?」
私は即答する。
「飛べる」
少し笑って続ける。
「形変えても、翼はある」
蒼は静かに目を閉じる。
そして、ゆっくり言った。
「じゃあ、また飛ぶわ」
秋風がカーテンを揺らす。
完璧じゃない未来。
それでも。
春は、続いていく。




