第2章・第2話 『揺れる数値と、言えなかった本音』
五月の終わり。
蒼の検査数値は、わずかに揺れていた。
医師は言う。
「すぐにどうこうという数値ではありません。ただ、注意は必要です」
“注意”。
その言葉は、私の胸の奥に重く沈んだ。
蒼は診察室を出ると、いつも通りに伸びをする。
「ほらな、セーフ」
無理に明るい声。
でも私は知っている。
親指を強く握っている。
あの癖が出ている。
その日の夜。
蒼からのメッセージは、少し遅かった。
《今日はもう寝る》
いつもより短い。
私は電話をかける。
数コールのあと、出た。
「もしもし」
声が少し掠れている。
「大丈夫?」
沈黙。
そして、ぽつり。
「正直、ちょっと怖い」
胸が締めつけられる。
「再発って言葉、頭から離れねえ」
あの日のICU。
赤いランプ。
蘇生。
全部、蘇る。
「でもさ」
蒼は続ける。
「怖いって言ったら、美桜も怖くなるだろ」
涙が出る。
「一人で抱えなくていいよ」
声が震える。
「一緒に怖がるから」
長い沈黙。
そして、かすかな笑い。
「それ、頼もしいな」
電話越しに、呼吸が少し落ち着くのが分かる。
「明日、会える?」
蒼が言う。
「うん」
「顔見たい」
その一言で、涙が溢れた。
翌日。
大学帰りのカフェ。
蒼はいつもより静かだった。
コーヒーをかき混ぜながら、視線を落とす。
「なあ」
ゆっくり言う。
「もし再発したらさ」
やめて。
でも、逃げない。
「もう一回、あそこからやり直すんだよな」
私は深く息を吸う。
「やり直す」
はっきり言う。
「今度は、もっと強く」
蒼が苦笑する。
「前も強かっただろ」
「強くなかった」
首を振る。
「あの時は、失うかもしれない怖さでいっぱいだった」
蒼を見る。
「今は違う」
手を握る。
「失う前提じゃなくて、一緒に戦う前提」
蒼の目が揺れる。
「戦う、か」
少し考えて、言う。
「じゃあさ」
私をまっすぐ見る。
「今度は逃げない」
「逃げたことないよ」
「ある」
静かな声。
「死ぬかもって思ったとき、本当はちょっと諦めかけた」
息が止まる。
「疲れてたし、怖かったし」
目が潤む。
「でも美桜が泣いてるの見て、戻りたくなった」
涙が落ちる。
「今度は、最初から諦めない」
その言葉は、静かだけど重かった。
数日後。
大学の講義中、蒼が倒れた。
一瞬、世界が止まる。
救急車。
白い天井。
私は震えながら駆けつける。
医師は言う。
「貧血による一時的なものです。再発ではありません」
膝から力が抜ける。
蒼はベッドの上で、少し照れくさそうに笑う。
「ビビった?」
怒りと安堵で涙が止まらない。
「当たり前でしょ」
蒼はゆっくり手を伸ばす。
「ごめん」
握る。
冷たくない。
ちゃんと温かい。
「まだ、生きてる」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
怖さは消えない。
数値は揺れる。
体も万全じゃない。
それでも。
倒れても、また起き上がる。
それが今の蒼。
「なあ」
蒼が小さく言う。
「怖いって言える相手がいるの、強いな」
私はうなずく。
「更新中だから」
蒼が笑う。
「じゃあ次も更新な」
窓の外に、初夏の光が差す。
不安は、ゼロにならない。
でも、ゼロじゃなくてもいい。
揺れながら。
支えながら。
何度でも、好きになり直しながら。
それが、私たちの第2章。
続いていく。




