第10話『1章最終話、「それでも春は、続いていく」』
退院の日、空はやけに青かった。
蒼はゆっくりと病院の玄関を出た。
一歩、外の空気を吸う。
少し咳き込んで、それから笑う。
「空って、こんな匂いだったっけ」
私は横でうなずく。
「忘れてた?」
「うん。でも悪くない」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
五割の向こう側。
命はつながった。
でも、それはゴールじゃない。
薬は続く。
定期検査も続く。
再発の可能性だって、ゼロじゃない。
それでも。
蒼は、生きている。
学校復帰は、思ったより静かだった。
「おかえり」
その一言が、こんなに重いなんて知らなかった。
蒼は最初、教室の後ろの席に座った。
長時間は座っていられない。
集中力もまだ戻りきらない。
ノートを取る手が止まるときがある。
そのたびに、悔しそうに眉を寄せる。
「焦んなくていいよ」
私が言うと、
「焦らないと、置いてかれそう」
と苦笑する。
でも、前みたいに強がらない。
「今日は無理」
そう言って保健室に行けるようになった。
それは弱さじゃなくて、成長だった。
放課後の屋上。
春の風がやわらかい。
桜は、もう散りかけている。
蒼はフェンスに手をかける。
「俺さ」
空を見上げたまま言う。
「記憶ないこと、最初は怖かった」
私は黙って聞く。
「美桜が泣いてる理由、分かんなかったし」
胸が締まる。
「あの春、俺は何してた?」
「いっぱい笑ってた」
本当だ。
泣いた夜もあったけど、
それ以上に笑っていた。
蒼は小さく笑う。
「じゃあ今も同じにしよ」
振り向く。
「これからいっぱい笑う」
その目は、前よりずっと強い。
季節は流れる。
夏。
蒼は少しずつ走れるようになった。
文化祭では軽音部の手伝いをした。
ギターは、以前よりぎこちない。
でも。
演奏が終わったあと、蒼は照れくさそうに笑った。
「指、まだ覚えてるっぽい」
身体の奥に、記憶は残っている。
言葉にならなくても、
ちゃんと。
秋。
定期検査の日。
結果を待つ時間は、今でも怖い。
番号が呼ばれるたび、心臓が跳ねる。
医師が言う。
「今のところ、再発の兆候はありません」
“今のところ”
その四文字に、未来の不安が詰まっている。
でも蒼は、診察室を出ると笑った。
「今、生きてる。それでいい」
私は泣きそうになる。
この人は、本当に強い。
強くなった。
冬。
受験の季節。
蒼は医療系の大学を志望した。
「命拾ったんだからさ」
照れくさそうに言う。
「誰かの役に立ちたい」
あの日、ICUのガラス越しに見た姿。
あの経験が、彼を変えた。
私は教育学部を選んだ。
「子どもに、ちゃんと好きって言える先生になる」
蒼が笑う。
「告白のプロかよ」
「あなたのおかげです」
冗談を言い合える日常。
それが奇跡。
そして、卒業式。
桜が舞う。
あの日と同じ景色。
でも、違う。
蒼は自分の足で、まっすぐ立っている。
名前を呼ばれ、証書を受け取る。
拍手の中、蒼は一瞬こちらを見る。
目が合う。
唇が動く。
「生きてる」
声は聞こえない。
でも、分かった。
壇上の彼は、
奇跡の延長線上に立っている。
式のあと、校門の前。
桜吹雪。
蒼が言う。
「なあ、美桜」
自然な声。
「もしさ」
少し真面目な顔。
「また何か忘れても」
手を握る。
「そんときは、また好きになるから」
涙が出る。
何度でも。
何度でもやり直せる。
命がある限り。
私は言う。
「私も、何回でも好きになる」
蒼が笑う。
「じゃあ、一生足りねえな」
手を強く握る。
温かい。
ちゃんと、温かい。
数年後。
大学のキャンパス。
蒼は白衣を着ている。
まだ学生だけど、目はまっすぐだ。
私は教育実習で子どもに囲まれている。
忙しくて、喧嘩もする。
体調が不安定な日もある。
検査結果に怯える夜もある。
それでも。
一緒にいる。
完璧じゃない未来。
でも、確かな未来。
春は、一度途切れた。
でも終わらなかった。
好きは、記憶じゃない。
今、選び続けること。
蒼が隣で言う。
「好きだよ」
私は笑う。
「更新中だね」
五割の向こう側で掴んだものは、
奇跡じゃなくて――
“続ける覚悟”だった。
春は、これからも。
何度忘れても、
何度でも、好きになる。
――完。




