プロローグ:はじまりは、未知の扉から
「……これ、本当に私がやるの?」
目の前にあるのは、最新型のVRデバイス『ノア・ギア』。
社会人である志乃は、深呼吸をしてからその白いヘッドセットを手に取りました。
志乃は、いわゆる「ゲーム初心者」です。これまではスマホでパズルを少し遊ぶ程度でしたが、仕事に追われる毎日に少しだけ疲れ、「癒やし」を求めてこの最新VRMMO『エテノア・ファンタジア』の世界に飛び込むことを決めたのでした。
設定画面で選んだ職業は、攻撃魔法も剣術も使えない**【調律師】**。
戦うためではなく、世界の音を聞き、命と心を通わせるという、少し特殊で不人気な補助職です。
「よし……。おやすみなさい、現実の私」
視界が真っ白な光に包まれ、ふわりと体が浮き上がるような感覚。
次に目を開けたとき、そこには志乃の想像を絶する光景が広がっていました。
風が、頬を撫でました。
草の匂い、花の香り、そして遠くから聞こえる噴水の音。
「わぁ……。本当に、ここがゲームの中なの?」
志乃が降り立ったのは、白亜の建物が並ぶ始まりの街「プリムラ」。
呆然と立ち尽くす彼女に、一人の老紳士が声をかけてきました。
「おやおや、見慣れない旅装ですね。若き調律師さん、ようこそ我が街へ」
それは、街の案内役を担うNPCのバナードでした。
彼はただのプログラムとは思えないほど、穏やかな目尻のシワを動かし、丁寧に腰を折って礼をします。彼の着ている執事服からは、かすかにアンティークの家具のような、落ち着く香りが漂ってきます。
「あ、すみません! 私は志乃……いえ、この世界では『シノ』です。今日始めたばかりで、何をすればいいのかわからなくて」
「シノ様、ですね。ふむ、調律師を選ばれるとは、優しい魂をお持ちのようだ。まずはそのステッキで、街の広場にいる『迷子の羊』の声を聞いてあげてはいかがかな?」
バナードは優しく微笑み、真っ白な手袋をはめた手で、広場の中心を指し示しました。
言われた通りに広場へ向かうと、そこには一匹の、見たこともないほど毛玉のように丸い動物がいました。
体長は30センチほど。雲をそのまま切り取ったような真っ白でフワフワの毛に、つぶらな金色の瞳。
「メェ……」
弱々しく鳴くその子に、シノは思わず駆け寄ります。
ゲームの知識はありませんが、「放っておけない」という本能が動きました。
「どうしたの? どこか痛いのかな」
シノがそっと手を差し出すと、その子はシノの手のひらに、自分から頭を「ぐいっ」と押し付けてきました。
指が、驚くほど深くまで柔らかい毛の中に沈み込みます。
(……何これ、最高に柔らかい……!)
その瞬間、シノの持つ初期装備のステッキが淡く光り、頭の中に不思議な感覚が流れ込んできました。
『……おなか、すいた。あまい、おはな、たべたい……』
「えっ、声……?」
これが【調律師】の力。言葉を持たない生き物の「心の声」を聴く力でした。
シノの冒険は、最強の武器を手に入れることではなく、この「お腹をすかせた毛玉」に美味しいお花を探してあげることから、静かに幕を開けたのです。




