第23話 伝説の厄災獣の顕現
その夜、ルベリット邸の食堂には、先ほど「解体」されたばかりのワイルド・グレート・ボアの芳醇な香りが漂っていた。
だが、食卓の空気は氷点下。
アラン王子が「……うまい。なんだこの肉の柔らかさは」と震えながら舌鼓を打つ横で、騎士団長のベネットがガチャンと乱暴にフォークを置いた。
「――茶番はここまでだ、リリア・ルベリット」
ベネットが立ち上がり、懐から赤い封蝋のされた書状を叩きつける。
「これは王都守護騎士団、および宰相閣下の連名による『特別徴収命令書』だ。貴殿が開発した自動灌漑魔導具の技術、およびその肩に乗る希少魔獣を、王国の公共資産として没収する」
「……団長!? 何を勝手なことを! そんな命令、私は聞いていないぞ!」
突然の暴挙にアラン王子が立ち上がるが、ベネットは冷酷に言い放った。
「これは殿下の権限外、軍事機密に関わる決定事項です。……さあ、小娘。大人しく技術のすべてを差し出せ。さもなくば、この屋敷を『反逆の拠点』として包囲し、力ずくで奪い取るまでだ」
……。
…………。
(……あーあ。交渉が決裂して、いきなり『敵対的買収』に切り替えてきたわね。前世でもあったわ、役員会を通さずに強引に株を買い占めようとするクソ企業)
私が溜息をつく暇もなく、私の隣で銀縁眼鏡を光らせたセシルが、音もなく立ち上がった。
「失礼いたします、ベネット団長。……その命令書、拝見しても?」
「ふん。事務官風情が読んだところで結果は変わらん」
「いいえ、変わります」
セシルは一瞬で書状をスキャンし、冷徹な笑みを浮かべた。
「第十二条、王室財産法における例外規定の解釈に致命的な『不備』がありますね。この領地は現在、ベリング商会を通じて王家への『優先供給契約』が締結されています。この契約下での強制徴収は、王国通商条約に対する重大なコンプライアンス違反です。
……さらに言えば、この書状の捺印。昨年度の予算委員会で無効とされた古い印章ですね?
――偽造、あるいは権限外の乱用として、即座に王都の監査機関に告発可能です」
「な……ななな……ッ!!」
セシルのマシンガントークに、ベネットが言葉を詰まらせる。
財務局のエリートだった彼女にとって、王宮の杜撰な書類など、バグだらけのプログラムも同然だ。
「ええい、黙れ! 屁理屈を! 結局は力がある者が法なのだ! 総員、剣を抜け! この屋敷の者を拘束しろ!」
ベネットの叫びと共に、騎士たちが一斉に抜剣した。
アラン王子が「やめろ!」と叫ぶが、狂奔した騎士たちは止まらない。
私は、冷めた目でその光景を見つめ、肩の上のクロを軽く叩いた。
「……クロ。契約違反の強制終了をお願い。――セキュリティレベル、最終段階へ」
「…………待たせすぎだ、お前」
クロが、私の肩から床へと降り立つ。
次の瞬間、屋敷全体が「心臓を直接握られたような」凄まじい振動に襲われた。
「な……なんだ!? 地震か!?」
ベネットがよろめく。
だが、それは地震などではなかった。
床に降り立った小さな仔犬の影が、不気味に伸び、広がり、食堂の壁を、天井を、飲み込んでいく。
影の中から、銀色の月光を纏った漆黒の毛並みが溢れ出し、屋敷の壁を突き破らんばかりに膨張した。
「……神を呪え。我を『魔獣』と呼び、奪おうとした不遜な者どもよ」
ドォォォォォン……!!
屋敷の天井が吹き飛ぶ(実際は魔力で透過している)かのような錯覚。
そこに現れたのは、食堂に収まりきるはずのない、山のように巨大な、漆黒の狼。
その紅い瞳は、一つの都市を滅ぼすほどの魔力を宿し、牙の一本一本が伝説の聖剣を凌駕する鋭さを放っている。
「ひ……ひぎぃっ……!? ふ、フェンリル……本物の、伝説の厄災獣……!!」
ベネットが、そして騎士たちが、剣を落としてその場にへたり込んだ。
本能が理解したのだ。
目の前にいるのは「戦う相手」ではない。抗うことすら許されない「終焉」そのものであると。
巨大なクロ――もとい伝説の厄災獣は、その鋭い鼻先をベネットの鼻先、数センチのところまで近づけた。
一呼吸ごとに、騎士の鎧が恐怖の振動でカチャカチャと悲鳴を上げる。
「……おい。俺を王都へ連れて行きたいと言ったな?」
地響きのようなクロの声が、屋敷を震わせる。
「……いいだろう。ただし、俺が行く時は、お前たちの王都が『更地』になる覚悟ができている時だ。……俺の一歩で家が崩れ、俺の一吠えで空が落ちる。……それでも、俺を飼いたいか?」
「ひ、ひぃぃ……! ご、ごめんなさい……許して、許してください……!!」
ベネットは、股間を濡らしながら涙を流して許しを乞うた。
アラン王子は、その圧倒的な終焉の美しさを前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……リリア嬢。君は、こんな……こんな世界を終わらせるような存在と、毎日一緒に……寝ているのか?」
「ええ、湯たんぽ代わりにちょうどいいですよ」
私が淡々と答えると、クロが「誰が湯たんぽだ」と不機嫌そうに唸り、再び霧のように姿を消して、私の肩に乗る小さな仔犬へと戻った。
静寂が戻った食堂。
残されたのは、腰を抜かして動けなくなった騎士たちと、あまりの情報の過負荷に知恵熱を出しそうなアラン王子だけだった。
「さて、ベネット団長。……『強制徴収』の件ですが、継続されますか? それとも、ここで『和解』に応じますか?」
私の問いに、ベネットは首を激しく横に振ることしかできなかった。
「(……よし、セキュリティのデモンストレーションは完了ね。……次は、この王子、アラン様の処遇だけど……)」
私は、ガタガタと震えながらも、必死にメモを取ろうとしているアラン王子の姿を、人事担当者のような冷徹な眼で見つめた。
「(……彼、あんな状況でも状況を記録しようとしている。……あの『事務処理能力』と『責任感』……そして何よりも第三王子という『地位』。うちの外交担当として、喉から手が出るほど欲しいリソースだわ)」
リリアの脳内で、王都の第三王子に対する「採用通知書(という名の脅迫状)」が、爆速でドラフトされ始めた。




