第19話 近代会計の夜明けと徹夜
ルベリット家の応接室は、今や『臨時のCFOオフィス』と化していた。
目の前では、さっきまでボロボロの格好をしていたはずのセシルが、クロの用意した温かいスープを数分で飲み干し、すでに鋭い目つきで書類の山に向き合っている。横には干し肉を食べるクロ。
セシルの手には、私が手渡した「前世の知識を詰め込んだ会計マニュアル」が握られていた。
「……リリア様。確認ですが、この『資産』と『負債』を左右に分ける記帳法……これは、あなたの考案ですか?」
セシルの声は震えていた。
彼女が手にしているのは、私が羊皮紙にさらさらと書いた【複式簿記】の概念図だ。
「ええ。今の王国の主流は単式簿記でしょう? でも、それだとお金の流れは追えても、財産の状態が正確に把握できないわ。左右を一致させることで入力ミス……いえ、『記帳のバグ』も防げるのよ」
「左右を……一致させる……。……っ!! なんて、なんて合理的な……!!」
セシルは眼鏡をクイッと上げ、私のマニュアルを食い入るように見つめた。
彼女は王都の財務局という、この世界で最も数字にシビアな場所にいた天才だ。このシステムの異常なまでの『美しさ』と『効率性』を理解するのに、時間はかからなかった。
「これなら、不透明な金の出し入れは不可能です。……横領も、隠し資産も、この表一枚ですべてが露わになる。……リリア様、あなたは会計の歴史を百年は早めてしまいましたね」
「褒め言葉として受け取っておくわ。……さあ、講釈は終わり。さっそく、ハンスさんが残した『バグだらけの帳簿』を、そのシステムに移行してちょうだい」
「承知いたしました。……面白いですね。数字で世界を再構築する感覚……王都では決して味わえなかった高揚感です」
そこからのセシルの動きは、まさに『マシーン』だった。
私が横で魔導具の設計図を引いている間、彼女は羽根ペンを猛烈な速度で動かし続けた。
計算機すらないこの世界で、彼女は暗算だけで複雑な利息計算をこなし、次々と数字を新しい表へと流し込んでいく。
一時間、二時間。
深夜の静寂の中に、ペンが紙を走る音だけが規則正しく響く。
「おい、お前……。この眼鏡の女も、大概おかしいぞ。魔力の匂いはしないが、放っている『集中力』が普通の人間じゃない」
夜食の干し肉を咀嚼していたクロが、少し引いたような顔でセシルを見つめる。
「言ったでしょう、クロ。彼女はSランクの技術者(会計士)なのよ。……セシル、進捗はどう?」
「……移行作業、約八〇%完了。……リリア様、少し気になります。この『消耗品費』に計上されている、ベリング会頭からの過剰なキックバック……いえ、手数料。これは『交渉の余地(叩きどころ)』ですね?」
「ええ。次の商談で、その数字を突きつけて単価を二割下げさせるつもりよ。……よく気づいたわね、セシル」
「当然です。数字の矛盾は、私にとっての『敵』ですから」
セシルが冷徹に微笑む。
(……完璧だわ。技術のカイル、財務のセシル。これでルベリット領という『システム』は、最強のコアを手に入れたわね)
★
翌朝。
太陽が昇り、ハンスさんとミーナがリビングにやってきた時、彼らが見たのは「またしても増えている不審な(でも有能そうな)新顔」だった。
「ひゃいっ!? だ、誰ですか、その綺麗な女の人……!」
「お、お嬢様……。また……また夜の間に、どこからか人材を引っ張ってこられたのですか……?」
ハンスさんが自分の仕事を奪われるのでは、という恐怖と、お嬢様がまた無理をしたのではという心配で、複雑な表情を浮かべている。
「ハンスさん、ミーナ。紹介するわ。今日から我が家のCFO(最高財務責任者)に就任した、セシルさんよ。王都の財務局出身のプロフェッショナルよ」
セシルは立ち上がり、完璧な角度で一礼した。
徹夜明けだというのに、彼女の背筋はピンと伸び、眼鏡の奥の瞳は爛々と輝いている。
「セシルです。ハンス様、ミーナ様。……先ほど、お二方のこれまでの業務ログ(帳簿)を確認させていただきました。……非常に『情熱的』ではありますが、『効率』の面では改善の余地が十二分にあります。今日から私が、お二方の負担を劇的に減らして差し上げます」
「劇的に……? あ、ありがとうございます……?」
ミーナが呆気にとられていると、空から一羽の伝書鳥が舞い降り、屋敷の窓枠に止まった。
その脚には、王室の紋章が入った重厚な筒が括り付けられている。
「……王都からの直行便ね。タイミングがいいわ」
私がその手紙を広げると、そこには流麗な文字でこう記されていた。
『近時、ルベリット領における異常な農業生産、および伝説の厄災獣出現の報告あり。
よって、王都より【第三王子アラン】を団長とする調査視察団を派遣する。
到着は三日後。男爵家は相応の準備を整え、待機せよ』
「……第三王子。……視察団、ですか」
セシルの表情が、一瞬で『鉄の財務官』のものに変わった。
「リリア様。彼らの目的は『視察』などではありません。……急成長したこの領地の利権を奪うか、あるいは王家の支配下に置くための『実地調査』です」
「わかってるわ。……面倒な『コンプライアンス・チェック(監査)』が来るってわけね」
私は、膝の上のクロをゆっくりと撫でた。
「でも、ちょうどいいわ。……ちょうど、大きな『融資』か『国家契約』が欲しいと思っていたところなの。……カイルには『最新の技術』を見せつけさせ、セシルには『鉄壁の帳簿』で付け入る隙を与えない。……ハンス、ミーナ。あなたたちは『最高のおもてなし』を準備して」
私は不敵な笑みを浮かべた。
「王家という大口顧客に、ルベリット領の『価値』を最高値で売り込んでやりましょう。……さあ、これから三日間。――また『深夜残業』の始まりよ!!」
「「「はいっ!!!」」」
こうして、ルベリット領は王都からの「監査」という名の戦いに備え、全リソースを投入した迎撃準備を開始した。




