第98話 湯煙の恋模様――温泉旅館で綴る三組の蜜月②
温泉旅館の朝は、清々しい空気と、食欲をそそる出汁の香りで幕を開けた。
朝食会場は、和洋折衷の豪華なバイキング形式だった。
昨夜の甘い余韻を纏った三組のカップルが席に着く中、ただ一人、戦士の眼差しで料理の山を見つめる者がいた。
「これたぬ……この『好きなものを好きなだけ』というシステムこそ、タヌロフが求めていた理想郷たぬ!」
タヌロフは、自分の体よりも大きいのではないかと思えるほど高く積み上げられた皿を抱え、テーブルへと帰還した。皿の上には、厚焼き玉子、焼き鮭、明太子、オムレツ、うどん、天ぷら――そして、山盛りの唐揚げが鎮座している。
「……タヌロフ。貴様、昨夜みのりに『朝は温泉街を三周走る』と言われていたはずだが。その脂質の山は何だ」
あっくんが、バランスの取れた和朝食を優雅に口に運びながら、冷ややかな視線を送る。
「はっ……! それはそれ、これはこれたぬ! 走るためのエネルギーを補給しているだけたぬー!」
タヌロフが必死に弁解する横で、ルカと真帆は相変わらずの距離感で朝食を楽しんでいた。
「……真帆さん。このサラダ、ドレッシングの配分が完璧です。僕が計算した黄金比に限りなく近い」
「はいはい、良かったわね。ほら、ルカくん、口の端にレタスがついてるわよ」
「えっ? あ、あの、自分で拭けますから……!」
真帆が指先でスッとルカの口元を拭うと、ルカは朝から沸騰したヤカンのように顔を赤くし、フォークをカチャカチャと震わせた。
一方、リュカと絵莉のテーブルは、まるで朝の光の中に溶け込んでいるかのような穏やかさだった。
「絵莉さん。このクロワッサン、絵莉さんの笑顔くらいふわふわしてて美味しいです……」
「もう、リュカくんたら……でも、本当に美味しいね。はい、あーん」
「……あーん」
公共の場であることを忘れ、幸せそうにパンを分け合う二人。その背後で、みのりはコーヒーを飲みながら、幸せそうに微笑んでいた。
「……平和だね、あっくん」
「うむ……だがみのり、一つだけ納得がいかぬ。あちらのコーナーにある『納豆』という魔生物……あれは何度試しても、糸を引く術式が解けぬ。余の敗北か?」
「あれはそういう食べ物なの。負けじゃないから、落ち着いて」
みのりが苦笑いしてあっくんの肩を叩く。
みんな、楽しそう。
有給休暇を使って企画したこの旅行は、どうやら大成功だったようだ。
しかし、平和な時間は長くは続かない。
バイキングの制限時間が迫る中、タヌロフが「ラストスパートだたぬ!」と、デザートコーナーのプリンを全種類制覇しようと立ち上がった。
「タヌロフ、いい加減にしなさい……あっくん、連れてって」
「承知した……タヌロフ、強制送還だ」
あっくんに首根っこを掴まれ、「プリンがああ! タヌロフのプリンがあああ!」と絶叫しながら引きずられていくタヌロフ。
温泉旅館の朝は、笑いと混乱、そして少しの甘さを残して、チェックアウトの時間を迎えようとしていた。
◇
温泉旅館の売店は、朝の光を浴びてキラキラと輝く土産物で溢れていた。
チェックアウトを済ませた一行は、帰りのバスまでの時間を潰すため、色とりどりの棚を眺めていた。
「みのり、少し待て。余の魔力に共鳴する、恐るべき覇気を放つ聖遺物を発見した」
あっくんが、玩具やキーホルダーが並ぶ棚の前で足を止めた。その視線の先にあるのは、金ピカのメッキが施された「龍が剣に巻き付いたデザインのキーホルダー」だった。
「あっくん、それ……修学旅行の中学生が買うやつだよ? そんなの買ってどうするの」
「何を言う。この造形、そして手に馴染むこの重量感……これは、余が異世界に遺してきた『真魔王剣』の縮小モデルに違いない。これを身に着ければ、余の威厳はさらに増すはずだ」
真剣な眼差しで、千円札を握りしめるあっくん。みのりは深い溜息をついたが、その横では別の攻防が繰り広げられていた。
「真帆さん、見てください。この『寄せ木細工』のコースター……幾何学模様が完璧なフラクタル構造を描いています。これを我が家のリビングに導入すれば、視覚的な安定度が十五パーセント向上します」
「はいはい、ルカくん。それ、さっきから三枚もカゴに入れてるわよ。コースターばっかりそんなに買って、誰が来るっていうの?」
「……それは。真帆さんが、いつ遊びに来てもいいように……」
ルカが急に小声になり、視線をコースターに固定した。真帆は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに悪戯っぽく微笑んで、ルカの背中をポンと叩いた。
「あら、じゃあ全員分買いなさいよ。みのりちゃんたちのも」
「……! は、はい。至急、会計を済ませてきます!」
一方、リュカと絵莉は、可愛らしい「お狐様のストラップ」を二人で眺めていた。
「絵莉さん、この白いお狐様、絵莉さんの優しい雰囲気に似てます……」
「ほんと!? じゃあ、私はこの水色のお狐様をリュカくんだと思って大切にしようかな。お揃い!」
「はい……! ずっと、大切にします……」
二人の周りには、相変わらずふわふわとした花が舞っているような空気が漂っている。
そんな中、タヌロフは売店の試食コーナーで、干し梅や温泉まんじゅうの破片を、目にも止まらぬ速さで口に放り込んでいた。
「むぐむぐ……! この『わさび漬け』鼻に抜ける刺激がたまらないたぬ! これさえあれば、白米三杯はいけるたぬー!」
「タヌロフ、試食だけでお腹を膨らませないの。ほら、みんな行くよ」
みのりが号令をかけると、あっくんは結局、龍の剣キーホルダーを誇らしげにTシャツの裾にぶら下げてやってきた。歩くたびにジャラジャラと音がするが、本人は「ふっ、力が溢れてくる」と満足げだ。
「……あ、そうだ。お父上とお母上にも、何かお土産を買っていかないとな」
あっくんがふと思い出したように呟く。お土産コーナーから、最高級の羊羹を選び取ると「これならばお父上も納得されるだろう」と頷いた。
バスに乗り込み、座席に深く腰を下ろす。
窓の外に遠ざかる温泉街を眺めながら、あっくんは隣に座るみのりの手をそっと握った。
「みのり。有給という名の休暇、感謝する……明日からのバイトも、この剣があれば百人力だ」
揺れるキーホルダーを見つめながら、みのりは「それはどうかなぁ」と笑った。
魔王軍の温泉旅行は、賑やかな思い出と、少しだけ増えたお土産の重さと共に、幕を閉じた。




