第97話 湯煙の恋模様――温泉旅館で綴る三組の蜜月①
きっかけは、みのりが会社で有給休暇を取得できたことだった。
「みんな、お疲れ様! 有給が取れたから、明日から一泊二日で温泉旅行に行こう!」
――こうして、あっくんとみのり、ルカと真帆、リュカと絵莉の三カップルに、当然のように混ざるタヌロフを加えた一行は、休みを合わせて湯煙たなびく温泉地へと向かうことになった。
◇
旅館に到着するなり、あっくんは格式高い和室の床の間を見て、満足げに頷いた。
「ふむ、この『和の空間』というやつは、魔王城の玉座の間にも通ずる静寂があるな」
「あっくん、ここは戦場じゃないんだから。まずは温泉に入って、ゆっくり疲れを癒そう?」
浴衣に着替えた一行は、旅館自慢の貸切露天風呂へと向かった。
雪がちらつく冬の露天風呂。立ち上る湯気の向こうで、あっくんが大きな背中を流している。
「みのり、これほどまでに心地よい湯が、この世界には湧き出ているのだな……余の魔力で沸かした湯とは、根本的な『癒やし』の格が違う」
「ふふ、そうでしょ。お肌もツルツルになるんだよ」
隣の風呂からは、ルカと真帆の話し声が聞こえてくる。
「……ルカくん、そんなに端っこに固まらなくてもいいじゃない。もっとこっちに来て、ゆっくり浸かりなさいな」
「い、いえ。理論上、湯にあたっている面積が大きすぎると、のぼせるリスクが飛躍的に高まりますので……僕は、ここで……」
「またそんな理屈ばっかり。ほら、背中流してあげるから」
「ぐっ……! ま、真帆さん、それは……精神的負荷が……!」
真帆の年上の余裕に翻弄され、真っ赤になって湯船に沈んでいくルカ。
さらにその奥からは、リュカと絵莉の穏やかな声が響く。
「……ふわぁ。絵莉さん、お湯が、とってもあったかいです……僕、このまま溶けて、お湯の一部になりそうです……」
「ふふ、リュカくん、本当に溶けちゃいそう。顔にお湯かけちゃおうかな」
「あはは……絵莉さんの手、あったかいです……」
三組三様の甘い空気が流れる中、ただ一人、脱衣所の籠の中で不満を募らせている者がいた。
「タヌロフだけペット専用風呂なんて、差別だたぬー! タヌロフだって、みのりのお背中を流したかったたぬー!!」
タヌロフの悲鳴は、静かな雪夜の温泉街に虚しく響き渡った。
◇
やがて、火照った体を冷ますため、女子三人は一度上がって大浴場の脱衣所へと集まった。そこには、男たちの前では見せない「女子会」の空気があった。
「……それにしても、あっくんの背中、相変わらず凄い筋肉ね。旅館の浴衣、はち切れそうじゃない?」
真帆が鏡の前で髪を整えながら笑うと、そのまま流れるように自分ののろけに繋げた。
「でも、うちのルカくんも負けてないわよ。あんなに理屈っぽいくせに、私がちょっと近づくとすぐ耳まで真っ赤にして……あのウブな反応、可愛すぎて一生いじめたくなっちゃうわ」
「リュカくんはお湯に浸かってると白磁の置物みたいに綺麗で……なんだか、食べちゃいたい可愛さだったわ」
絵莉がうっとりと語ると、みのりは苦笑いして返した。
「二人とも、のろけすぎだよ。私は、あっくんが露天風呂の岩を『良い材質だ』って鑑定し始めたときはどうしようかと思ったわ」
みのりが苦笑いして返すと、三人は顔を見合わせて笑い転げた。それぞれの「彼氏」たちの浮世離れした言動は、今や彼女たちにとって最高の肴だった。
「でも、こうして女子だけで温泉に入るのもいいわね……あ、みのりちゃん、お肌ツヤツヤ。やっぱり恋してるからかしら?」
「もう、真帆さん……からかわないでよ!」
そんな賑やかな女子たちの声を、脱衣所の籠の中で丸まっていたタヌロフが、羨ましそうに聞き耳を立てていた。
「羨ましいたぬー! 女子の秘密の会話、タヌロフも混ざりたかったたぬー!」
◇
湯上がり。一同は浴衣姿で宴会場に集まった。テーブルに並ぶのは、豪華な懐石料理の数々だ。
「さあ、みんなで乾杯しよう! あっくん、バイトお疲れ様」
「うむ……この『びーる』という黄金の魔力、五臓六腑に染み渡るな」
あっくんが豪快にグラスを空ける横で、タヌロフはここぞとばかりに箸を動かしていた。
「これたぬ! このためにタヌロフは、昨日の夜食を我慢したんだたぬ! 温泉地の料理は、カロリーなんて概念を忘れさせてくれるたぬー!」
「タヌロフ、それは違うわよ。旅行先だからこそ、明日の朝は早起きして温泉街を三周走るからね」
「殺生たぬー!」
月光に照らされた雪景色の中、魔王軍の夜は、湯煙よりも柔らかく、賑やかに更けていくのだった。
◇
豪華な懐石料理を堪能し、宴会の喧騒が落ち着いた頃。それぞれのカップルは、温泉街の夜を思い思いの過ごし方で楽しんでいた。
旅館の庭園に面した縁側。あっくんとみのりは、冷えた空気の中で寄り添い、夜空を見上げていた。
「みのり、見てみろ。この世界の月も、魔界の月と同じように冴え渡っておるな……だが、隣にみのりがいる分、こちらの方が幾分か温かく感じる」
「……あっくん、そういうこと、さらっと言うよね」
みのりが少し照れながら肩を預けると、あっくんは大きな手で彼女の肩を抱き寄せた。
筋肉痛の名残など微塵も感じさせない、力強くも優しい温もりが伝わってくる。
「当然だ。余は魔王。愛する女を喜ばせる言葉の一つや二つ、魔導書を読み解くよりも容易いことだ」
不敵に笑うあっくんの横顔は、月光に照らされてどこか神々しく、みのりはその胸に深く顔を埋めた。
一方、別の客室のベランダでは、ルカと真帆が対照的な空気を作り出していた。
「……ルカくん、そんなに縮こまってないで、もっと近くに来なさいよ。夜風、冷たいわよ?」
「い、いえ。統計学的に見て、この距離がパーソナルスペースの維持と体温保持の均衡を保つ最適解……」
「またそれ。はい、没収」
真帆がルカの羽織の袖をぐいと引き寄せると、ルカはバランスを崩して真帆の腕の中に収まってしまった。
「くっ、ま、真帆さん……! 心拍数が……理論上の限界値を突破して……」
「いいから黙って、あったまりなさい……可愛いんだから」
真帆が耳元で囁くと、ルカは真っ赤になった顔を隠すように俯いた。その眼鏡の奥の瞳は、これ以上ないほど幸せそうに潤んでいた。
そして、静かな談話室のソファでは、リュカと絵莉が寄り添い、一冊の旅雑誌を眺めていた。
「……絵莉さん。この写真の雪景色、とっても綺麗です。でも、絵莉さんの瞳に映っている景色の方が、僕にはずっと綺麗に見えます……」
「リュカくん……どこでそんなセリフ覚えたのよ? 私、恥ずかしくて溶けちゃうって」
「ふふ、溶けるのは僕の役目ですよ……手、繋いでもいいですか?」
リュカが遠慮がちに差し出した手を、絵莉はそっと包み込んだ。二人の周りだけ、まるで時間が止まったかのような、甘く穏やかな雪が降り積もっている。
そんなそれぞれの甘い夜を、廊下をトコトコ歩いていたタヌロフが目撃していた。
「どこもかしこも甘すぎて、ボクの虫歯が痛み出してきたぬー! 誰かタヌロフに、甘くない激辛の揚げ出し豆腐を持ってくるたぬー!」
タヌロフの叫びは、幸せに満ちた旅館の静寂を、一瞬だけ賑やかに彩った。




