第95話 鋼の魔王、乳酸に敗北す
ダイエット作戦開始から数週間。
リビングには、どこか誇らしげに腹を突き出すタヌロフと、それを厳しい目で見つめるあっくんの姿があった。
「タヌロフ。この一週間、余と共にかなりの距離を走破した……さあ、成果を見せろ」
「ふふーん、任せるたぬ。体が羽みたいに軽いたぬ!」
自信満々に体重計に飛び乗るタヌロフ。しかし、液晶に表示された数値を見て、あっくんの眉間が険しく歪んだ。
「……プラス、二キロ。貴様、ふざけておるのか?」
「ええっ!? 増えてるじゃない!」
私が叫ぶと、タヌロフはあわあわと視線を泳がせた。
「お、おかしいたぬ……! 毎日あんなに走ったのに、なんで増えるたぬ!?」
「……タヌロフ。貴様、昨日の夜、余が目を離した隙に姿を消していたな。どこへ行った」
あっくんの追求に、タヌロフは観念したように小さな声を漏らした。
「……走ってたら、あまりにお腹が空いて、力が出なくなったんだたぬ。だから、ちょっとだけ『転移魔法』を使って……みのりのお父上とお母上のところへ行ってきたたぬ」
「ええっ!? 私の実家に行ったの!? 新幹線で数時間の距離なのに!」
「あやつ、そんなことに魔力を使ったのか……」
あっくんが呆れたように溜息をつく。
「みのりのお母上が『あらー! タヌロフちゃん、久しぶりやんね! てか、あんた、どげんしたと!? えらい痩せこけて、顔のしゅっとしてから! ちゃんと食べよるとね? ちょうど今、煮物作っとったとよ』って言って、山盛りの煮物と、炊きたてのどんぶりご飯を食べさせてくれたたぬ……。お父上も『スタミナをつけろ』って、高級な和牛を焼いてくれたたぬ……」
「……あの二人、タヌロフが来ると孫が来たみたいに喜んじゃうからなぁ……って、だめだよタヌロフ! ダイエット中だって言わなかったの!?」
「言おうとしたけど、お味噌汁のいい匂いに負けたたぬ……お母上の手料理は、魔王軍の軍規よりも抗いがたい魔力を持ってるたぬー!」
開き直って「お母上の味は世界一たぬ!」と叫びながら逃げ出すタヌロフ。
「逃がさんぞタヌロフ!! 二キロ増だと!? 貴様、余の訓練を何だと思っている! これより、みのりの実家への転移座標を余の魔力で封鎖する!!」
「そんなの殺生たぬー! 実家の味を奪うのは非人道的たぬー!」
遠く離れた実家の両親まで味方につけてしまったタヌロフに、私は頭を抱えた。
まさかダイエットの天敵が、自分の両親の優しさだったなんて……。
◇
「……ほう。これがこの世界の鍛錬場か。奇妙な鉄の塊が並んでおるな」
九州への「食欲の逃避行」をあっくんに封じられたタヌロフ。ついに私は最終手段として、近所の大型スポーツジムに全員分の入会手続きを済ませた。
あっくんは黒いタンクトップ姿で、並んでいるトレーニングマシンを興味深そうに眺めている。その筋骨隆々な体格は、トレーナーさんたちも二度見するほどの威圧感だ。
「さあ、タヌロフ! 今日からは逃げ場なしよ。まずはそのランニングマシンで三十分!」
「うぅ……外を走るより、逃げ道がない感じがして怖いたぬ……」
タヌロフが渋々ベルトコンベアの上に乗る。その横では、ルカくんとリュカくんも準備を整えていた。
「真帆さんに『少し体力がついたね』と言ってもらえるよう、僕も理論に基づいた効率的な筋肥大を目指します」
ルカくんはマシンの説明書きを熟読し、負荷をミリ単位で調整している。一方、弟のリュカくんは……。
「……あ、これ、動くんですね……わぁ、歩いてるのに景色が変わらなくて、不思議です……」
リュカくんはマシン特有の感覚に、相変わらずぼんやりとした様子で、ふわふわと歩き始めていた。絵莉に「頑張ってね」と言われたのが効いているのか、足取りだけは確かだ。
◇
十五分後。
あっくんはベンチプレスで、ジムにある最大重量のプレートを全て付け、無表情で「ふんっ、ぬんっ」と軽々と持ち上げていた。周囲には「あの人、何者……?」とざわめきが起きている。
一方、タヌロフはというと。
「はぁ、はぁ……もう限界たぬ! 足が棒のようたぬ! みのり、あそこに『ぷろていん』とかいう聖水が売ってるたぬ! あれを飲めば回復するはずたぬ!」
「ダメ! あれはしっかり運動した後のご褒美。あと十五分歩きなさい!」
「殺生たぬー!」
タヌロフが絶叫したその時、隣のマシンで黙々と走っていたルカくんが、冷徹に告げた。
「タヌロフ、無駄な叫びは酸素の浪費です。そのエネルギーを全て脚部の駆動に回してください……あ、リュカ、寝ながら走るのは不可能です。起きてください」
「……あ……少し、意識が遠のいていました……」
リュカくんは走りながら船を漕ぎ、マシンから転げ落ちそうになっていた。
◇
ようやくトレーニングを終え、更衣室から出てきた一同。
タヌロフは生まれたての小鹿のようにプルプルと震えている。
「……やりきったたぬ。これで一気に三キロは痩せたたぬ……さあみのり、九州のお母上のすき焼きに匹敵する、最高の栄養補給に連れて行くたぬ!」
「まだ一回目だよ! 今日の夕飯は、鶏ささみとブロッコリーの温野菜サラダね」
「ひぇえええええたぬ!!」
ジムのロビーにタヌロフの悲鳴が響き渡る。
それを見守るあっくんは、自分の腕の筋肉を確かめながら「ふむ、この『ぷろていん』という飲み物、なかなか喉越しが良いな」と、意外にもジムライフを気に入り始めていた。
◇
翌朝、魔王軍の拠点であるマンションのあちこちから、この世の終わりを告げるような呻き声が響き渡った。
「……ぐ、ぬぅ。何だ、この肉体の重さは。何者かに重力魔法でもかけられたというのか」
ベッドから起き上がろうとしたあっくんが、腹筋に力を入れた瞬間に激痛が走り、そのまま「カハッ」と息を止めて沈没した。
最強を誇る魔王の肉体も、ジムの過剰な負荷による「乳酸」の襲来には抗えなかったようだ。
一方、リビングではさらに無惨な光景が広がっていた。
「ルカ、僕、体が……一ミリも動きません。指先さえ、僕の意思を拒絶しています……」
「……黙ってくださいリュカ。僕も……大腿四頭筋が……計算外の衝撃で……立ち上がることが不可能です」
廊下の真ん中で、ルカとリュカが芋虫のように這いつくばったまま硬直している。
理論に基づいて効率的に鍛えたはずのルカですら、自分の体重を支えることすらままならない。
そして、最も深刻なのがタヌロフだった。
「ぎにゃあああああ!! お腹が、お腹の皮が引っ張られて、笑うことさえできないたぬ! これじゃあ大好物の揚げ物を飲み込む筋力も残ってないたぬ……死ぬ、死ぬたぬー!」
タヌロフは床の上でひっくり返った亀のようにジタバタしているが、その振動ですら腹筋に響くのか、すぐに「アイタタタたぬ!」と叫んで動きを止める。
「みんな、大げさだなぁ。ほら、ちゃんと朝ごはん食べて。動かないと、余計に体が固まっちゃうよ」
唯一、みのりだけは平然とキッチンに立っていた。
普段、会社ではデスクワーク中心の仕事だが、日々あっくんたちの世話を焼き、掃除や買い物で立ち回っている彼女にとって、これくらいの日常動作は何の支障もなかった。
その手には、容赦なく「茹でた鶏ささみ」が握られている。
全員が「鬼……」「サディストたぬ……」「非効率的な追い込みです……」と恨みがましい視線を送るが、みのりはどこ吹く風でサラダを皿に盛り付ける。
「……みのり。余に、これほどの苦痛を味合わせるとは……だが、不快ではない。この痛みが、鋼の肉体へと至る試練だというのならな」
あっくんはプルプルと震える腕で、なんとかフォークを握りしめた。
魔王軍の朝は、爽やかな筋肉の叫びと共に、波乱の幕開けを迎えたのだった。




