第94話 冬の波音と魔王の独白――月夜の海辺、温もりを分け合う帰り道
冬の午後の柔らかな日差しが、散歩道を白く照らしていた。
私は、隣を歩くあっくんの大きな手に自分の手を重ね、ゆっくりと歩を進める。
「最近、魔物も出なくなって平和だね」
私の言葉に、あっくんは少しだけ目を細め、満足そうに頷いた。
「うむ。余が目を光らせているからか……あるいは、部下たちまでこの世界の穏やかさに、毒気を抜かれてしまったか……どちらにせよ、今の平穏は嫌いではないな」
「毒気を抜かれるって……みんなが馴染んでるってことでしょ? いいことじゃない」
「ふ……まあ、そうだな」
あっくんが優しく微笑む。
このまま、ずっと平和だといい――そう願いかけた、その時だった。
「……待て。みのり、あそこを見ろ」
あっくんが鋭い視線で指し示したのは、自動販売機の脇。
そこには、プルプルと震えながら青白く光る、拳大のスライムがいた。
「えっ、スライム!? こんな街中に?」
私たちの視線に気づいたのか、スライムは驚いたように跳ねると、そのまま細い路地の奥へと逃げ出した。
「待って! 誰かに見つかったら大変!」
「案ずるな、みのり。余が逃がしはせぬ!」
私たちは顔を見合わせ、反射的に駆け出した。
幸いにも、スライムが逃げ込んだ先は人通りのない行き止まりの路地裏だった。人目がなかったのは、まさに不幸中の幸いというやつだ。
「……追い詰めたぞ、不届き者め。余の許可なくこの地を彷徨うとはな」
あっくんが低い声で威圧すると、スライムは恐れおののいたように「きゅう……」と小さく縮こまった。
私はすかさず、カバンから例の捕獲器を取り出す。
「よし、いい子にしててね」
パァァァ、と淡い光が路地を包み、スライムの姿は音もなく消え去った。
無事、魔界へと強制送還完了だ。
「ふぅ……心臓に悪いわ、もう」
安堵して肩の力を抜くと、ふと、路地の突き当たりにひっそりと佇む、隠れ家のようなカフェが目に留まった。
ツタの絡まるレンガ造りの壁に、アンティーク調のランプ。街の喧騒から切り離されたような、静かな空間だ。
「ねぇ、あっくん。せっかくだから、ここで少し休んでいかない?」
「……うむ。不測の事態で余の喉も渇いた。みのりとゆっくり過ごす時間としては、申し分ない場所だな」
カフェの店内は、珈琲の香ばしい匂いと静かなジャズが流れていた。
奥のボックス席に座ると、あっくんの大きな体には少し椅子が狭そうだったけれど、彼はどこかリラックスした様子で背もたれに身を預けた。
「……先ほどの平穏を願う言葉、撤回した方がよいか?」
あっくんが、運ばれてきた珈琲を啜りながら、悪戯っぽく笑う。
「まさか……でも、あんな風に二人で追いかけるのも、なんだか私たちらしくて楽しいかな、なんて思っちゃった」
「ふ……確かに、平和すぎても余の腕が鈍るからな……みのり、これからも余の隣で、この世界の騒がしさを共に楽しんでくれるか?」
「もちろん。あっくんが放電して家電を壊さない程度なら、ね」
私が笑って答えると、あっくんは一瞬だけ耳を赤くして、「善処しよう」と短く返した。
窓の外では再び平穏な日常が流れているけれど、この小さなカフェの中だけは、二人だけの特別な時間がゆっくりと流れていた。
◇
カフェを出た私たちは、夜風に吹かれながら海沿いの遊歩道へと足を向けた。
駅の方へ戻るのとは逆方向だけれど、今はまだ、この静かな時間を終わらせたくなかった。
「……冷えるな。みのり、足は疲れていないか?」
あっくんが心配そうに隣をのぞき込む。私は首を振って、彼の腕にぎゅっとしがみついた。
「大丈夫。少し歩いて、海を見てから帰りたいな」
「みのりの願いなら、どこまでも付き合おう」
あっくんは私の手を解くと、迷いなく自分のコートのポケットの中へ引き入れた。ポケットの中で、大きな手のひらが私の指先を包み込む。
人通りのない海沿いの道。街灯がまばらに続く先には、真っ暗な海が静かに広がっていた。
やがて、波の音が間近に聞こえる砂浜の入り口に辿り着いた。月光に照らされた波打ち際が、銀色にキラキラと輝いている。
「綺麗……冬の海って、空気が澄んでて吸い込まれそう」
「……余は、そうは思わぬな」
あっくんは足を止め、私を自分の方へと向かせた。ポケットから手を出した彼は、そのまま私の肩を引き寄せ、大きなコートの端で私を包み込むように抱き寄せる。
「海がどれほど深く、月がどれほど美しかろうと、余の視界には今、みのりしか映っておらぬ……余の世界は、みのりという存在だけで十分に満たされているのだからな」
真っ直ぐすぎる、魔王としての宣戦布告のような愛の言葉。
側近たちの前で見せる威厳とは違う、一人の男としての、重厚で熱い視線が私を射抜く。
「……ずるいよ、あっくん。そんなこと言われたら、寒さなんて忘れちゃうじゃない」
「ふ……ならば、さらに熱を分かち合うとしよう。寄れ、みのり」
彼は私の頬を両手で包み込んだ。冷たい潮風を切り裂くように、熱い吐息が重なる。
ゆっくりと顔を近づけるあっくんの瞳には、愛おしさとはち切れんばかりの独占欲が混ざり合っていた。
重なった唇は、驚くほど熱い。
一度離れても、彼の方から奪うように、何度も、深く重ねられる唇。
波の音にかき消されるような微かな吐息と、コート越しに伝わる彼の力強い鼓動。
「……みのりはやはり、余を狂わせる」
唇を離したあっくんが、私の額に自分の額を預け、愛おしそうに目を細めた。
「魔法など使わずとも、貴女の一言で余の心は焼き尽くされる……このまま、誰もいない場所へ連れ去ってしまいたいほどにな」
月明かりの下、寄り添い合う二人の長い影。
冬の冷たい空気さえも、二人の間に流れる甘く濃密な熱気に溶かされていくようだった。
「……さあ、冷えすぎる前に帰るぞ。風邪でも引かせたら、余は自分を許せぬからな」
そう言って、あっくんはもう一度、私の手を自分のポケットへと導いた。
一歩、一歩。砂を踏む音と、二人の呼吸を合わせながら、私たちはゆっくりと家路についた。




