第92話 冬の夜の秘め事――甘いチョコの味と、初めてのキス
冬の夜、オフィス街の冷たい風がビルの間を吹き抜けていく。
定時を過ぎて会社のエントランスを出ると、少し離れた街灯の下に、見慣れたシルエットを見つけた。
白く柔らかなマフラーに顔を半分埋めて、ぼんやりと夜空を見上げているのはリュカくんだ。
中性的な顔立ちと、少し華奢な肩。そこに立っているだけで、なんだかそこだけ時間の流れがゆっくりに見える。
「リュカくん、お待たせ! 寒かったでしょ?」
声をかけると、彼はゆっくりと視線をこちらに落とし、ぱちくりと瞬きをした。
「……あ、絵莉さん。お疲れ様です……寒さは、大丈夫です。絵莉さんの会社の窓に灯りがついているのを眺めていたら、なんだか心が温かかったので」
「もう、そんなこと言って……ずっと待ってたの?」
「はい。絵莉さんが、この世界の戦いを終えて出てくる瞬間を、一番に見届けたかったので……」
リュカくんは、とろんとした眠そうな瞳で、真っ直ぐに私を見つめる。
この子は自覚がないみたいだけど、たまにこういう「甘い」ことを、さらっと、ぼんやりとした口調で言うから困る。
「……ありがと。じゃあ、ちょっと温かいものでも食べて帰ろっか。あそこのカフェのフォンダンショコラ、気になってたんだ」
「ふぉんだん……? はい、絵莉さんが仰るなら、どこへでも」
◇
店内の隅、オレンジ色の照明に包まれた席に座る。
運ばれてきた熱々のショコラから、甘い香りが立ち上った。
「わぁ、美味しそう! リュカくんも食べてみて」
絵莉がフォークでチョコを一口分すくい、彼の口元へ運ぶ。
リュカくんは不思議そうにそれを眺めていたが、促されるまま、小さく口を開けた。
「……あむ」
口に含んだ瞬間、彼はふにゃりと眉を下げて、とろけるような笑みを浮かべた。
「……あまい、です。絵莉さんと一緒にいる時の気持ちと、同じ味がします」
「……っ! もう、本当にそういうこと普通に言うんだから!」
真っ赤になって照れる絵莉を見て、リュカくんは不思議そうに首を傾げた。
「おかしなことを言いましたか? ……僕はただ、絵莉さんが隣にいてくれると、胸の奥がこのチョコみたいに、じわっと解ける感覚がするので……それをそのまま、口にしただけなのですが」
「それが恥ずかしいの! ……もう」
そんな二人の様子を、窓の外の植え込みから覗く四つの影。
「……相変わらず、リュカは天然で恐ろしいな。悪気なく相手の心臓を射抜いておる」
「リュカくん、ぼんやりしてるようで、実は一番の策士なんじゃないかなぁ……絵莉、完全にノックアウトされてるし」
「僕も負けていられませんね……」
「甘い匂いたぬ……。チョコの沼に溺れたいたぬ……」
夜の帳が下りた街角。
少しぼんやりとしたリュカくんの、ひたむきで真っ直ぐな言葉に、絵莉はため息をつきながらも、その不思議な温もりに心地よく身を委ねるのだった。
◇
カフェを出た後、二人は他愛もない話をしながら、街灯がまばらに灯る夜の公園を歩いていた。
シン、と冷え切った冬の空気が、肌を刺す。
「……絵莉さん、やはり冷えますね。もし差し支えなければ、その……マフラーを、半分こしませんか? その方が、もっと温かい気がします」
リュカくんは、はにかんだように顔を少し伏せながら、自分の首元で巻かれた真っ白なマフラーの端を差し出した。
彼の目元は少しぼんやりとしているけれど、その表情からは、確かな優しさが伝わってくる。
「……いいの? ありがとう」
私は彼に一歩近づき、差し出されたマフラーの端をそっと受け取って、自分の首に巻いた。
すると、リュカくんの少し甘い香りがふわりと漂って、なんだか急に心臓がドキドキし始める。
一つのマフラーを共有したことで、私たちの顔は、ぐっと近くなった。
彼の透き通るような白い肌。少しだけ開いた唇。そして、とろんとした、どこか夢見がちな瞳。
その全てが、まるで吸い寄せられるように、私を見つめていた。
「…………」
「…………」
会話が途切れる。
沈黙だけが、二人を包む。
肌が触れ合う距離で、互いの呼吸が、白く、静かに重なった。
凍えるような夜だというのに、私の頬は熱かった。
リュカくんも、顔を真っ赤にして、視線を泳がせている。
その繊細な横顔を見ていると、なんだか、いてもたってもいられない気持ちになった。
……だめだ、これは。
私から、言わなきゃ。
そう思った、その時だった。
そっと、リュカくんの顔が近づいてくる。
あまりにゆっくりで、あまりに慎重な動きに、私は息を呑んだ。
逃げられない。
逃げたくない。
そして。
優しく、触れるだけのキス。
一瞬だけ触れて、すぐに離れる。
「…………」
その唇は、まだ、カフェで食べたフォンダンショコラの甘い香りがした。
リュカくんは、ぼんやりとした瞳で、私の顔を見つめている。
「……あまい、です」
そう、小さく呟いた。
その言葉に、私は顔から火が出るほど真っ赤になった。
「なっ……! もう、リュカくんったら!」
そんな私を見て、リュカくんは、はにかんだようにそっと目を伏せた。
「……ごめんなさい。あまりにも、絵莉さんの唇が、美味しそうだったので」
冬の公園のベンチ。
冷たい風が吹く中で、一つのマフラーと、チョコレートの甘い余韻だけが、二人の間に温かく漂っていた。




