第86話 予定のない彼女を地下室に連れ出したら、恋心が隠しきれなくなった件
駅ビルの喧騒から少し離れた、地下にある古本カフェ。
壁一面を埋め尽くす古い背表紙が、ランプの温かな光に照らされている。
ここは、以前真帆さんが「落ち着くから好き」だと話していた場所だ。
テーブルを挟んで向かい合う真帆さんは、今日は眼鏡を外し、少しだけ気合の入ったような深い紺色のワンピースを着ていた。
「ルカくん、本当によかったの? 私の『予定がない』なんて愚痴に付き合っちゃって」
申し訳なさそうに、でも嬉しそうに微笑む真帆さんに、僕は居住まいを正した。
「いえ……僕が、真帆さんと一緒に過ごしたかったんです。……あ、もちろん、儀式の調査という意味もありますが」
「ふふ、まだ『儀式』なんて言ってる。ルカくんらしいね」
彼女が楽しそうに笑うたび、僕の心臓は、戦場での奇襲よりもずっと激しく警鐘を鳴らす。
運ばれてきたのは、シナモンが香るホットチョコレート。
「……あの、真帆さん」
僕はカップを持つ指先に力を込めた。
「以前、魔物からお守りした時……僕は、真帆さんを『一般人』として守るべき対象だと思っていました。それが、僕としての任務だと」
「……うん」
「でも、今は違います」
本に囲まれた静寂の中で、僕の声だけがはっきりと響く。
真帆さんが、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「予定がないと仰った時、僕は……不敬ながら、安堵してしまった。真帆さんの特別な時間を、他の誰にも奪われたくないと思ってしまったんです……これは、僕の傲慢な独占欲、なのでしょうか」
真面目すぎる僕の告白に、真帆さんは一瞬呆然としたあと、顔を真っ赤にしてカップを口元に寄せた。
「……ルカくん、それ……ずるいよ。そんな真面目な顔で、そんなこと……」
眼鏡のない彼女の瞳が、潤んだように揺れる。
「傲慢じゃないよ……私も、ルカくんとこうして座ってる時間が、他の何よりも特別だって……思ってるから」
地下の静かな空間で、二人だけの時間がゆっくりと重なる。
外のクリスマスソングは届かないけれど、僕の胸の中には、どんな魔法よりも温かな熱が満ちていた。
◇
地下のカフェを後にした僕たちは、冷え込んだ夜の空気の中、街灯が点々と続く静かな公園へと足を向けた。
繁華街の喧騒は遠ざかり、時折通り過ぎる車の音だけが、ここが東京であることを思い出させる。
「……寒くないですか? 真帆さん」
「大丈夫。少し歩いて、ちょうどいいくらい」
真帆さんはマフラーに顔を埋めながら、僕の隣をゆっくりと歩く。
僕はコートのポケットの中で、さっきからずっと握りしめていた小さな包みを、指先で確かめた。
「あの、真帆さん……少し、お時間をいただけますか」
噴水近くのベンチの前で立ち止まり、僕は意を決して彼女に向き直った。
「……これ。本当は、お会いした時にすぐにお渡しするべきだったのですが」
差し出したのは、銀色のリボンで結ばれた、藍色の小さな箱。
真帆さんは驚いたように目を見開いて、そっとその箱を受け取った。
「えっ……ルカくん、これ……」
「この世界の流行りなどは、あまり詳しくありませんが……僕の世界で、最も硬く、守りの力が強いとされる『蒼晶石』を加工しました」
箱の中には、細い銀の鎖に通された、深い青色のペンダントが収まっていた。
星空を切り取ったようなその石は、街灯の光を吸い込んで、静かに、けれど強く輝いている。
「魔王アークロン様の側近として、ではなく……僕個人が、真帆さんの日常を、笑顔を守りたいという誓いです。ですから、どうか……身につけてはいただけないでしょうか」
真面目すぎる、そして重すぎるほど一途な誓い。
真帆さんはペンダントを見つめたまま、しばらく動けずにいた。
「……『守りたい』なんて、そんなの……反則だよ……」
ぽつり、と漏れた声は、今にも消えてしまいそうなくらい震えていた。
真帆さんは潤んだ瞳で僕を見上げると、顔を真っ赤にしながら、でも力強く頷いた。
「……うん。嬉しい……大切にするね」
その言葉に、僕の視界は一瞬で白く発光したような錯覚に陥った。
冷たい冬の空気の中で、僕たちは寄り添うようにして、しばらくその場から動けずにいた。




