第82話 理性、防御失敗につき
昼のチャイムが鳴り、スーパーの喧騒が一段落する。
休憩室に流れ込んできたのは、揃って赤いサンタ帽を被った面々だった。
「……この世界には、クリスマスという儀式があるのだな」
鏡代わりの電子レンジの扉に映る自分の姿を見ながら、思わずそんな感想がこぼれる。
銀髪にサンタ帽。どう考えても場違いだが、周囲は誰も気にしていない。それどころか――
「儀式っていうより、イベントかな。大切な人と過ごしたりする日よ」
そう教えてくれたのは、向かいに腰掛けた真帆さんだった。紙コップのコーヒーを手に、柔らかく笑う。
「大切な人……か」
その言葉に、胸の奥がひどく静かに波立つ。
真っ先に浮かんだのは、昨夜のことも、今朝の赤い顔も、全部含めたひとりの女性だった。
「あとね、プレゼントを渡し合ったりもするの」
「……プレゼント」
贈る、という行為。相手を思って選ぶ時間。
それは、戦場には存在しなかった概念だ。
「真帆さんも、クリスマスは大切な人と過ごすんですか?」
少し遠慮がちな声が、会話に割り込む。
隣に座るルカが、真っ直ぐすぎるほど真剣な目で尋ねていた。
「私? 私はクリスマスの予定ないわ……悲しくなるから聞かないで」
冗談めかして肩をすくめるその様子に、場の空気が一瞬だけ緩む。
「す、すみません」
深く頭を下げたルカは、心底申し訳なさそう――けれど、どこか安堵したようにも見えた。
その様子を横目に見ながら、再び考える。
この世界の“儀式”に、もし意味を見出すとしたら。
――大切な人に、何を贈るべきなのか。
赤いサンタ帽の内側で、魔王はひとり、静かに思案を始めていた。
◇
その日の仕事終わり、ひとりで駅構内から続く商店街へ足を向けた。
通路の天井には赤と金の飾りが揺れ、ガラス越しの店先には小さなツリーやリース。どこからか、鈴の音と甘い焼き菓子の匂いが漂ってくる。
――これが、クリスマスか。
人の流れに身を任せて歩いていると、ふと足が止まった。
硝子ケースの中、月光のように淡くきらめくオルゴール。細工は繊細で、蓋を開けば小さな星が回る仕掛けだ。
「プレゼントにぴったりですよ」
声をかけられ、余は一瞬だけ逡巡し――そして頷いた。
包みを受け取ったとき、胸の奥が不思議と温かくなった。
◇
帰宅すると、部屋は静かだった。
ルカもリュカもタヌロフも眠っているらしい。
間接照明の柔らかな光の下、みのりだけが起きていた。
余が包みを差し出すと、みのりは目を瞬かせた。
「え? なにこれ……?」
「以前、みのりが余に贈ってくれた、あの……たぬ助。あれのお返しだ」
包みを解いた瞬間、みのりは息を呑んだ。
繊細な飾りが灯りを受けて瞬き、そっと回り出す。澄んだメロディが、部屋に静かに広がった。
「……すごく、きれい……! 音も……好き……!」
両手で大事そうに抱え、何度も頷く。
「ありがとう、あっくん……!」
次の瞬間、みのりが一歩踏み出し――抱きついてきた。
「……っ!」
慌てて両手を宙に浮かせる。どうすればいいのか、わからない。
けれど、彼女の体温と、胸元で鳴り続ける小さな旋律が、確かにここにある現実だと教えてくれた。
「よ、喜んでもらえたなら……それで、よい」
そう言う声は、我ながら落ち着きを欠いていた。
オルゴールの音に紛れて、余の鼓動も、やけに大きく響いていた。
◇
「気分良いから、今日は飲んじゃおっかな!」
そう宣言したかと思うと、みのりはどこからか細身のボトルを取り出した。淡い金色の液体が揺れて、ラベルには見慣れない外国語。
「……それは、酒か?」
「シャンパンだよ。たまにはいいでしょ?」
「飲めるのか?」
「んー、そんなに強くはないんだけど、大丈夫」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で嫌な予感が芽生えた。だが、今さら止めるのも野暮だろう。
「じゃあ……かんぱーい!」
グラスを軽く合わせると、澄んだ音が部屋に響いた。みのりは一口飲んで、ぱちっと目を瞬かせる。
「わ、しゅわしゅわする……! おいしい」
「……思ったより、飲むな」
「今日は特別だから」
その後も、テレビを眺めながらぽつぽつと会話を交わし、グラスは二度、三度と空いた。みのりの声は少しずつ柔らかくなり、頬もほんのり赤い。
「……みのり?」
「なあにー?」
返事は間延びしていて、もう答えは出ていた。
次の瞬間、ふわりと重みが増す。気づけば、みのりが当然のように余の膝に乗っていた。
「……なぜ、そこに座る」
「んー? ここ、あったかいから」
「酔っているのか?」
「全然、酔ってない〜」
そう言って、みのりは彼の胸に額をすり、とろりとした目で見上げる。体温も、距離も、近すぎる。
(こ、これは……)
――完全に、酔っている。
「ん……あっくん、あったかい」
みのりはそう言って、遠慮というものを忘れたみたいに身を預けてくる。膝の上で向きを変え、胸元に額を押し当てて、子猫みたいに擦り寄った。
「……みのり。落ち着くのだ」
「だいじょうぶ〜。ここ、落ち着くから」
全然大丈夫ではない。
声が少しとろんとしていて、完全に酔っている。
余は観念して、背に回した手でゆっくりと撫でた。強く抱き締めるわけでもなく、拒むわけでもなく、ただ逃げ場を塞ぐような距離感で。
「……甘えすぎだ」
「だってぇ、あっくん優しいもん」
みのりはくすっと笑い、指先で余の服の裾をつまむ。その仕草がやけに無防備で、胸の奥がざわついた。
「……余は、こういうときの対処を学んでいない」
「ふふ。じゃあ、今覚えよ?」
上目遣いでそんなことを言われて、余は思わず視線を逸らす。
「覚えぬ」
「うそ。もう覚えてる顔」
「……静かにしろ」
そう言いながらも、手は離さない。むしろ、肩を抱く力は少しだけ強くなった。
みのりは満足したように、余の胸に頬をすり、とろりとした声で囁く。
「ねぇ、あっくん」
「なんだ」
「こうしてるの、好き」
「……余も、嫌いではない」
その言葉に、みのりは小さく笑って目を閉じた。膝の上で丸くなり、すっかり身を委ねている。
余は天井を仰ぎ、深く息を吐く。
――嫌な予感は、確かに現実になった。
だが。
腕の中のぬくもりを手放す気は、どうしても起きなかった。
顔を上げたみのりと、至近距離で目が合う。
潤んだ瞳。ほんのり赤い頬。
呼吸が重なり、距離が、自然と縮まっていく。
「……後悔は、せぬな?」
「しないよ。ぜったい」
余は、ゆっくりと彼女の顎に手を添え――
触れるだけの、確かめるような口づけを落とした。
みのりが小さく息を呑み、すぐに力を抜いて身を預けてくる。
その反応に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
短く、静かなキス。
だが確かに、想いを交わすには十分すぎるほどの。
唇を離しても、彼女は余の胸に額を寄せたまま、満足そうに微笑った。
「……えへへ」
余は苦笑しつつ、その頭を抱き寄せる。
――今夜は、これ以上進む必要などない。
このぬくもりだけで、十分だった。




