第80話 勇気の一歩、距離はゼロ――魔王と私、はじめての口付け
昼休みのチャイムが鳴り、社員食堂には一気に人の波が押し寄せた。トレイがぶつかる音、湯気の立つ匂い、あちこちから聞こえる雑談。いつもの、少しだけ騒がしい昼の時間だ。
私は絵莉と向かい合い、今日の日替わり定食を前に箸を取った。揚げ物が好きな絵莉は迷いなく唐揚げ定食。相変わらずだ。
「で、最近あっくんとはどうなのよ?」
いきなり核心を突かれて、思わず味噌汁を吹きそうになる。
「ど、どうって……普通、かな……」
そう答えながら、頭の中には先日のことが浮かぶ。テレビ、近い距離、恋愛ドラマ、そして――にんにく。
「普通ねぇ……その顔で?」
にやにやとした視線に耐えきれず、私は箸を止めた。
「……その、キスしそうには……なったけど」
「は?」
「いや、ほら、雰囲気的に……!」
「ちょっと待って。それもう付き合ってるじゃん」
即断即決だった。
「つ、付き合っては……ないよ!」
「じゃあ何?同居して、夜一緒にテレビ見て、キス未遂で、何もないって?」
ぐうの音も出ない。顔が熱い。
「……うぅ……」
「はいはい、ごちそうさま」
絵莉は満足そうに唐揚げを頬張りながら、にやりと笑った。
少し間が空いてから、今度は私が切り出す。
「そういえば……絵莉、リュカくんをデートに誘ったって本当?」
「どこ情報よそれ」
「……あっくん」
「あー……あの魔王、ほんと情報筒抜けね」
肩をすくめつつも、絵莉は否定しなかった。
「行動に移さなきゃ、気持ちなんて伝わらないでしょ」
さらりと言い切る声は、いつも通り強くて迷いがない。
「……う、耳が痛い……」
箸でご飯をつつきながら、小さく呟く。
絵莉はそんな私を見て、少しだけ表情を緩めた。
「みのりはさ、慎重すぎるのよ。でもね、それが悪いわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「踏み込まなきゃ、始まらない瞬間もあるってだけ」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
私も、もう少し――。
(……あっくんに、踏み込んでみようかな)
そんなことを考えながら、私はようやく冷めかけた味噌汁を口に運んだ。
◇
部屋の明かりは落とされ、間接照明だけが静かに床を照らしている。
ルカくんとリュカくん、タヌロフがすっかり寝静まったのを確かめてから、私はそっとコタツに戻った。
向かいでは、あっくんが魔導書をめくっている。ページを繰る音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は意を決して、彼の隣に腰を下ろす。
「……どうした、みのり?」
不思議そうに首を傾げるあっくん。その仕草ひとつで、胸がどきりと鳴る。
「ちょっと……話したくて」
昼の社食での絵莉の言葉が、頭の中でよみがえる。
――行動に移さなきゃ、気持ちなんて伝わらない。
私は膝の上で指をぎゅっと握りしめた。
あっくんは魔導書を閉じ、私のほうをまっすぐ見た。
その視線から逃げずにいられる自信なんて、正直なかったけど。
「私ね……あっくんと一緒にいる時間が、すごく好き」
声が少し震える。でも、止めなかった。
「戦ってるときも、こうして何もない夜も。全部、大切で……失いたくない」
一拍の沈黙。
心臓の音がうるさい。
やがて、あっくんがゆっくりと息を吐いた。
「……余もだ」
短い言葉なのに、胸に落ちる重さが違った。
「余は魔王で、そなたは人間だ。それでも……みのりと共に在ることを、選びたいと思っている」
そっと、距離が縮まる。
肩が触れ、温もりが伝わってくる。
「だから――」
あっくんの手が、私の手の上に重なった。
逃げ場は、もうない。
それでも、不思議と怖くなかった。
「……いいのか?」
「……うん」
小さく頷いた、その瞬間。
あっくんが、慎重すぎるほどゆっくりと顔を近づけてくる。
息がかかる距離。視界が、彼だけで埋まる。
もう――待てなかった。
私は思わず背伸びして、その胸元の服をきゅっと掴む。
心臓の音が、うるさいくらいに響いていた。
「……あっくん」
呼んだ声は、驚くほど震えていて。
それでも、彼の動きが一瞬止まったのがわかった。
「みのり……?」
問いかける声より先に、私は一歩踏み込んだ。
唇が、触れた。
ほんの一瞬、確かめるみたいな、ぎこちないキス。
柔らかくて、あたたかくて――すぐに離れてしまいそうで。
でも、今度はあっくんの方から、そっと応えてくる。
ためらいがちに、けれど確かに、逃がさないように。
コタツの中、間接照明だけの静かな部屋。
テレビも、魔導書も、世界の危機も――全部、遠くに消えて。
ただ、唇越しに伝わる体温だけが、現実だった。
やがて、名残惜しそうに離れる。
「……余は」
あっくんは、少し困ったように、でも穏やかに笑った。
「みのりが踏み込んでくるのを、待っていたのかもしれぬな」
顔が、熱い。
耳まで赤くなっている自覚があった。
「……ずるいよ、それ」
そう言うと、あっくんは小さく喉を鳴らして笑う。
「だが――悪くは、なかろう?」
私は答えの代わりに、もう一度、そっとその距離を詰めた。
踏み込んだ先にあったのは、怖さじゃなくて。
ちゃんと、同じ気持ちだった。
――こうして私たちは、ようやく同じ一歩を踏み出したのだと思う。




