第79話 どうして僕を?――魔族青年、胸のざわめき初体験
レジの表示が切り替わり、店内に流れていた明るい音楽が、少しだけボリュームを落とした。
閉店までは、あと少し。僕は棚の前で最後の品出しを終え、かごを持つお客さんたちの流れを目で追っていた。
夕方のスーパーは独特だ。仕事帰りの人、学校帰りの学生、今日の献立に悩む人たちの気配が、ゆるやかに混ざり合っている。
この世界の、こういう空気にも――少しずつ慣れてきた。
そのときだった。
入口のほうから、見覚えのある人影が見えた。
背筋を伸ばして歩く女性。はきはきした足取りで、周囲を見渡している。
……あの方は。
「リュカくん!」
声をかけられて、僕ははっとする。
「みのりさんの、お友達さん」
「絵莉よ。絵・莉!」
訂正するように、彼女は胸を張った。相変わらず勢いがある。
「ねえ、リュカくん。仕事終わり、少しだけ時間もらえないかしら?」
「え……?」
思わず言葉に詰まる。
「あ、あの……みのりさんは?」
「今日は私単独できたわ」
「……なんで……?」
理由がまるで見えなくて、頭の中が真っ白になる。
どう返せばいいのか迷っていると、背後から気配を感じた。
「行ってこい」
振り向くと、アークロン様がにやりともせず、ただ当然のように言った。
「アークロン様が言うなら……」
僕は小さくうなずいた。
◇
仕事を終え、絵莉さんと並んで向かったのは、駅から少し離れた小さなカフェだった。
扉を開けると、木の香りと甘い匂いがふわりと広がる。奥には小さな暖炉があり、ぱちぱちと薪の弾ける音が心地よかった。
「いいところでしょ?」
「……はい。すごく、落ち着きます」
「今日は、私の奢り」
「えっ。あ、ありがとうございます……」
僕が頼んだのは、ホットミルクと、はちみつがけのスコーン。
絵莉さんはカフェラテと、分厚いチーズケーキを選んでいた。
運ばれてきたスコーンは、割ると中から湯気が立ちのぼり、甘い香りが鼻をくすぐる。
一口かじると、外はさくっと、中はふんわりしていて、思わず目を見開いた。
「……美味しいです」
「でしょ? 疲れてるときは、こういうのが一番なのよ」
そんな他愛ない会話をしながら、僕たちはゆっくりと時間を過ごした。
暖炉の火を眺めながら、カップを両手で包む。
――どうして、呼ばれたのか。
その答えは、まだわからない。
けれど、この静かな時間が、なぜか悪くないと思っている自分がいた。
◇
暖炉の火がぱちりと小さく鳴った。
カップから立つ湯気の向こうで、絵莉さんは指先を縁に引っかけたまま、少しだけ視線を落としている。
「……ねぇ。今日みたいなの、また誘ってもいい?」
唐突で、でも不思議と乱暴じゃない声だった。
僕はフォークを置き、言葉を探して一拍遅れる。
「ど、どうして……僕を……?」
自分でも驚くほど、素直な疑問が口から出た。
スーパーには他にも人はいるし、もっと話しやすい人だっているはずだ。
絵莉さんは一瞬だけ言葉に詰まり、それから勢いで顔を上げる。
「……だって。リュカくんが、いいから!」
強い断言でも、軽い冗談でもない。
その中間みたいな温度に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ぼ、僕で……いいんですか……?」
「リュカくん“が”いいの。無理に答え出さなくていいし、嫌なら断ってくれてもいい。でも……また話したいって思ったのは、本当」
暖炉の火が、二人の影を壁に揺らす。
視線が合って、すぐに外れて、また戻る。
「……わかりました」
気づけば、そんな返事をしていた。
「じゃあ、また……そのときは……」
「うん。連絡する!」
絵莉さんはほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、理由のわからない鼓動の早さをごまかすように、僕はカップを持ち上げる。
――これは、きっと。
始まりの、始まり。
そう思うと、胸の奥が少しだけ、あたたかかった。




