第78話 人間世界で、先輩と呼ばれた日。――魔族青年のアルバイト日誌
レジの電子音と、買い物かごのぶつかる音が、いつも通りに店内を満たしている。
エプロンを整えながら、僕は品出しの棚を確認していた。
――今日も、平和だ。
そう思った矢先だった。
「あ……」
少し離れた場所で、小さく困った声が聞こえる。
振り向くと、真帆さんが台車の前で立ち尽くしていた。段ボールが斜めに積まれていて、今にも崩れ落ちそうだ。
「真帆さん、大丈夫ですか」
僕が駆け寄るより早く、箱がぐらりと揺れた。
「わ、ちょっと……!」
反射的に手を伸ばす。
その瞬間――
(まずい……)
人目は、ない。
ほんの一瞬だけなら。
僕は息を止め、指先にだけ魔力を集中させた。
空気がわずかに震え、崩れかけた段ボールが“元からそうだった”かのように、ぴたりと元の位置に戻る。
どさり、と音はしなかった。
「……え?」
真帆さんが、目を瞬かせる。
「今の……?」
「だ、大丈夫です。重心が、たまたま戻っただけで……!」
慌てて笑顔を作りながら、僕は人差し指を口元に当てた。
しー、という仕草。
真帆さんは一瞬きょとんとしたあと、小さく息を吸って――くすっと笑った。
「……ありがとう、ルカくん。ほんと、どっちが先輩かわからないわね」
「そんなことないです。真帆さんのほうが、ずっと頼りになります」
「そう?」
そう言いながらも、真帆さんはどこか探るような視線を僕に向けてくる。
あの夜、魔物の話をしてから――彼女は、ずっとこんな目をしていた。
(信じきれて、いない……ですよね)
それでも。
何も言わずにいてくれる、その優しさが、少しだけ胸に沁みる。
「じゃあ、私はバックヤード行ってくるわね」
「はい。お気をつけて」
去っていく背中を見送りながら、僕はそっと息を吐いた。
(……危なかった)
この世界に溶け込むことは、思っていた以上に難しい。
それでも。
段ボールの山を整えながら、僕は小さく微笑む。
(――守れるものが、増えていくのは……悪くないですね)
レジの電子音が、またひとつ鳴った。
◇
休憩時間、バックヤードの自販機の前でばったり真帆さんと鉢合わせた。
「……あ」
同時に声が出て、少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
さっき売り場で助けたことを思い出して、僕は軽く会釈した。
「さっきはありがとうございました。あのままだったら、たぶん全部ひっくり返ってました」
苦笑しながらそう言われて、僕は首を振る。
「いえ。たまたま近くにいただけですから」
「たまたま、ね。いつもタイミングがいいわよね」
紙コップにコーヒーを注ぎながら、柔らかく笑う。
その横顔を見て、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「今日は忙しいですね」
「うん。でも、ルカくんがいてくれると助かるわ。重いものも平気だし、気も利くし」
「そ、そんな……」
照れ隠しに視線を逸らすと、くすっと小さな笑い声が聞こえた。
「本当に不思議。前からここで働いてたみたい」
――それは、褒め言葉として受け取っていいんだろうか。
あの日、全部を打ち明けたことが脳裏をよぎる。
「……信じられない話、ですよね」
ぽつりと零すと、彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「正直に言うと、まだ全部は信じきれてない。でもね」
そこで一度言葉を切り、こちらを見る。
「嘘をつく人の顔じゃないっていうのは、わかるのよ」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「ありがとう……ございます」
「ふふ。変なこと言った?」
「いえ。嬉しかったです」
タイマーの音が鳴り、休憩の終わりを告げる。
彼女は立ち上がり、エプロンを整えながら振り返った。
「じゃあ、後半もよろしくね。頼りにしてる、先輩」
そう言って微笑み、真帆さんは休憩室を出ていった。
「……はい。こちらこそ」
返事はしたものの、胸の奥が少しだけむずがゆい。
先輩って……。
ついこの前まで、この世界のことも、仕事のことも手探りだったのに。
その呼び方が、冗談とはわかっていてもどこか不思議で、くすぐったかった。
背中を見送りながら、僕はそっと息を整える。
無意識に、胸元の名札に視線を落とした。
異世界の魔法使いではなく、ただのスーパーの一員として。
誰かに頼られ、隣で働いている。
この世界で、少しずつ。
――ちゃんと、居場所を作れている気がした。




