第77話 キス寸前!? でもにんにくは最強の防御魔法でした
仕事を終えて、タイムカードを切る。
カチ、という音がしただけなのに、今日はそれがやけに心地よかった。
(だって、今日は給料日だもん!)
自然と足取りが軽くなる。
駅までの道も、いつもより少し短く感じた。
(よし。決めた)
前から考えていたことを、今日はやろう。
◇
家に帰ると、すでにリビングに明かりがついていた。
「お帰りなさい、みのりさん」
「帰ったか」
「お帰りなさいです」
「お帰りたぬ!」
顔を出した四人を見て、思わず笑ってしまう。
「ただいま! ねえ、みんな、お腹すいてない?」
問いかけた瞬間、全員ぴたりと動きを止めてこちらを見る。
「……空いている」
「すごく」
「早く夕飯食べたいです」
「腹ぺこたぬ……」
(うん、予想どおり)
「実はね、美味しいパスタ屋さん見つけたんだ」
「ぱすた?」
「今日は給料日だし、みんなで外食しよ!」
一瞬の沈黙のあと。
「……いいのか?」
あっくんが少しだけ遠慮がちに言う。
「いいのいいの! たまには贅沢しよ!」
「やった……!」
ルカくんが素直に喜び、
「お外で食べるの、楽しみです」
リュカくんも嬉しそうに頷く。
「タヌロフも行くたぬ!」
タヌロフは、ぴょんと一跳びして喜んだ。
◇
向かったのは、以前絵莉と一緒に来た駅近くの小さなパスタ屋――「もっちりパスタ工房 ノッテ」
「メニュー多い……!」
「迷いますね」
それぞれ好きなものを頼み、しばらくして湯気を立てた皿が運ばれてくる。
トマトソースの赤、クリームの白、バジルの緑。
テーブルの上が一気に華やいだ。
「……美味しい」
最初に口をつけたのは、ルカくんだった。
フォークを止めたまま、目をわずかに見開いている。
「麺が、もちもちですね……!」
「ほう。確かに」
あっくんは一口分を丁寧に巻き取り、静かに頷いた。
「ソースも濃すぎぬのに、物足りなくもない。良い塩梅だ」
「具がゴロゴロしてて、美味しいです」
リュカくんは少し微笑みながら、ゆっくりと味わっている。
「おいしいたぬ……!」
タヌロフは両手でフォークを握り、頬をふくらませながら必死に食べていた。
「これ、いくらでも食べられるたぬ! おかわりしたいたぬ!」
その様子に、思わず吹き出す。
みんなが夢中で食べているのを見て、胸の奥がじんわり温かくなる。
こうして同じテーブルを囲んで、同じものを美味しいって言える時間が、何より嬉しかった。
◇
帰宅してからは、自然と流れが決まっていた。
順番にお風呂を済ませ、湯気と石鹸の匂いが部屋に残るころには、満腹のせいかルカくんとリュカくんはコタツに入ったまま舟をこぎ始め、タヌロフもクッションを抱えて丸くなる。
「……もう寝たのか」
「早いね」
テレビの音だけが小さく流れる中、私はあっくんの隣に座った。
画面では、ちょうど恋愛ドラマが佳境に差しかかっていて、登場人物たちが見つめ合ったまま、言葉を失っている。
甘ったるいBGMが流れ、次に何が起こるのか、わかりきっているはずなのに――
なぜか、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
私は画面から目を逸らし、無意識に隣の気配を意識してしまっていた。
「今日は、ありがとう」
「え?」
「外食も、みんなの様子も……余は、ああいう時間が好きだ」
そう言って、あっくんは少し照れたように視線を逸らす。
胸の奥が、じんわり温かくなった。
「私も。みんなが楽しそうだと、嬉しい」
私がそう言うと、あっくんは一瞬だけ目を伏せた。
何かを考えるように、少し間を置いてから、息をつく。
「……本当に、みのりはそういうところだな」
あっくんの声は、テレビの音に溶けるように低かった。
ちょうどそのとき、画面の中の物語が大きく動いた。
雨の夜、街灯の下で向き合う男女。沈黙のあと、ゆっくりと距離が縮まり――。
(……あ)
キスシーンだった。
私は思わず瞬きをして、視線を逸らした。
けれど、さっきから気になっているのは画面じゃない。
隣に座るあっくんの存在。
肩と肩が触れそうで、触れない、この距離。
画面から流れる切なげな音楽が、部屋の空気を変えていく。
さっきまで賑やかだったコタツの向こうは静まり返り、寝息だけが微かに聞こえた。
距離が、いつの間にか近い。
視線が絡み、言葉が途切れる。
テレビの音が、やけに遠く感じられた。
あっくんが、ほんの少し身をかがめた。
息が触れそうで、心臓がうるさく鳴る。
「……っ」
私はとっさに、顔を背けた。
「きょ、今日……にんにく……食べちゃったから」
「……なに?」
一拍遅れて、二人とも同時に気づく。
あっくんは耳まで真っ赤で、私の顔もきっと同じ色だ。
「そ、そういう問題ではないな……」
「わ、わかってるけど! タイミングってあるでしょ!」
コタツの向こうでは、寝息が三つ。
気まずさと可笑しさが入り混じって、私たちは顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
その夜は、それ以上近づくことはなかったけれど。
胸の奥に残った熱だけが、なかなか冷めてくれなかった。




