第76話 夜更けのカモミールティーと、触れそうで触れない距離の話
ルカくんとリュカくん、タヌロフの寝息が、部屋のあちこちから静かに聞こえてくる。
灯りを落とした室内は、間接照明だけが淡く残り、夜の時間がゆっくりと流れていた。
その片隅で、あっくんは膝を抱え、壁に背を預けてうずくまっていた。
いつもなら背筋を伸ばしているはずのその姿が、今夜はひどく小さく見える。
私はキッチンに立ち、湯気を立てるカモミールティーをゆっくりと淹れた。
カップを両手で包み、音を立てないように近づいていく。
そっと差し出すと、あっくんは一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を伏せた。
「……すまぬ」
低く、かすれた声。
「討伐が遅れた。結界も甘く、一般人を巻き込んだ。余は魔王でありながら……最近、失策が続いておる」
湯気の向こうで、銀の睫毛がわずかに震える。
責任を背負うことに慣れすぎた人の、痛々しい沈黙だった。
私はその隣に腰を下ろし、同じ目線になる。
「誰だって失敗はあるよ」
そう言って、できるだけ柔らかく笑った。
「全部完璧じゃなくていい。間に合わなかった日も、巻き込んじゃった日も……それでも、ちゃんと守れてる。私たちは、ちゃんと生きてる」
カモミールの香りが、静かな部屋に広がっていく。
夜はまだ深いけれど、少しだけ、心の重さが和らいだ気がした。
私はカップを口に運びながら、少しだけ視線を泳がせた。
「実はさ……私も、最近やらかしたんだ」
あっくんがわずかに顔を上げる。
「取引先のメール、送信先まちがえて……しかも上司じゃなくて、全社共有に近いやつで……」
思い出しただけで胃がきゅっとなる。
「フォロー入れるのに走り回って、めちゃくちゃ怒られて……その日は帰ってからずっと布団に顔うずめてたよ」
苦笑すると、あっくんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと小さく息を漏らした。
「……みのりでも、そのような失敗をするのか」
「するよ。するする。しょっちゅう」
肩をすくめると、あっくんの表情が、少しだけやわらぐ。
「でもね、不思議なもので……誰かがそばにいて、話を聞いてくれるだけで、次の日はまた頑張ろうって思えるんだ」
その言葉に、あっくんはしばらく黙り込んだまま、カップを見つめていた。
やがて、ぽつりと零れる。
「……余はいま、励まされているのだな」
「うん。全力で」
そう答えると、あっくんは珍しく視線を逸らし、少しだけ照れたように咳払いをした。
「……悪くないな」
そして、ほんのためらいのあと、こちらへ身を寄せてくる。
「少しだけ……こうしていても、よいか?」
距離が近い。
肩が触れそうで触れない、その絶妙な距離。
胸が、どくんと鳴る。
「う、うん……」
答えた声が、思ったより小さかった。
間接照明の淡い光が、あっくんの長い睫毛に影を落とす。
「みのりは、不思議だな。こうして話していると……胸の奥が、静かになる」
その言葉に、私は返事を忘れてしまう。
沈黙が落ちる。
やがて、あっくんの手が、そっと動く。
膝の上に置かれた私の手へ――触れるか触れないか、その距離で、ためらうように止まった。
指先が震え、かすかに熱だけが伝わる。私は息を詰めたけど、逃げなかった。
あっくんの肩越しに、彼の鼓動が伝わってくる。
やがて、あっくんは小さく息を吐き、その手を引いた。
それ以上近づかないための、自制の動きだった。
けれど――一度縮まった距離は、簡単には戻らないまま、二人の間に残っていた。
「……今宵は、ここまでにしておこう。これ以上は、心が追いつかぬ」
「……うん」
私は小さく頷く。
立ち上がるとき、二人の視線が絡み合い、すぐに逸れた。
夜はまだ長い。
けれどその静けさの中で、確かに――距離は、少しだけ縮んでいた。




