第117話 約束の神壇と深海の断罪――魔王の婚礼、嵐を呼ぶ白銀の旋律②
全員の避難を確認し、重厚なチャペルの扉が閉じられた、その刹那。
外海から響いたのは、大気を震わせるほど低く、粘ついた咆哮だった。
白い回廊を、大地そのものが悲鳴を上げるような振動が襲う。
「……来るぞ。総員、迎撃態勢を整えよ」
あっくんが静かに、しかし絶対的な覇気を纏って前に出る。
砕け散ったステンドグラスの向こう――鏡のような海面を割り、天を衝く巨影が姿を現した。
それは巨大な海蛇の魔物。
かつて討ったサメなど児戯に等しい。
胴体は高層ビルほどに太く、持ち上がった頭部からは、視界を歪めるほどの濃密な魔力が濁流となって溢れ出していた。
「この規模、リヴァイアサン級か……!」
「王の婚礼に現れるには、少々無作法が過ぎますね……!」
ルカくんが鋭い視線で敵を射抜き、リュカくんが震える手で魔力を練り上げる。
あっくんの周囲には、これまで一度も見せたことのないほど禍々しく、そして神々しい漆黒の魔力が渦巻いた。
「余の花嫁の前に現れた不敬……その魂ごと、塵芥に帰してくれる」
激突は、刹那だった。
ルカくんの閃光のごとき剣撃は硬質な鱗に弾かれ、リュカくんが放った渾身の魔法は、怪物の吐息によって一瞬で掻き消される。
直後、山が崩れるような衝撃が二人を襲い、壁際まで吹き飛ばした。
「ルカくん! リュカくん!」
みのりの悲鳴が、爆音に呑み込まれる。
間髪入れず襲い来る巨体の尾を、あっくんが正面から受け止める。
しかし、その圧倒的な質量は王の防壁さえも貫き、彼の身体を白亜の壁へと叩きつけた。
「……っ、……この程度か」
鮮血が、純白の床に点々と花を咲かせる。
三人が膝をつき、荒い息が静寂の中に響く。誰もが絶望を予感し、天を仰ぎかけた、その時だった。
「まだ終わりじゃないたぬ!!! 筆頭幹部を舐めるなたぬーーー!!!」
炸裂する叫び声と共に、地面が爆発するように割れた。
タヌロフの身体が急速に膨張し、愛くるしい毛皮は鋼の鎧へと変質していく。
一瞬にして海蛇と並ぶ巨躯へと変貌したその姿は、かつて魔界で恐れられた「神獣」そのものだった。
「タ、タヌロフ……!? 貴様、その姿……」
「受付で追い返された恨み……今ここで、全部ぶつけるたぬ!!!」
覚醒したタヌロフが、咆哮と共に海蛇に組み付く。
凄まじい肉弾戦の衝突音。
二体の怪獣が絡み合い、東京湾が津波のようなうねりを上げた。
「今です! アークロン様!」
「リュカ、時間を稼げ! 境界を穿つ!」
ルカくんが最後の魔力を振り絞って結界を維持し、リュカくんが血で染まった床に巨大な魔法陣を展開する。
それは異世界へと繋がる、禁忌の召喚ゲート。
「応えろ……! 誇り高き宿敵、勇者リオル!!」
溢れ出す白光。ゲートの向こうから、一人の青年が軽やかな足取りで現れた。
「……やれやれ。結婚式に怪獣退治の余興か。相変わらず退屈させないな、アークロン」
「……助かるぞ、リオル。礼はいずれ返してやる」
並び立つ、光と闇。
かつて命を奪い合った宿敵同士が、今は一つの目的のために背中を預け合っていた。
「合わせるぞ、リオル。余の『絶望』に光を乗せろ」
「任せろ。お前の門出だ、最高に派手な花火にしてやる!」
魔王の漆黒と、勇者の黄金。
相反する二つの力が重なり合い、一条の裁きの光となって海蛇の核を正確に射抜いた。
――天地を揺るがす轟音。
そして、訪れる奇跡のような静寂。
巨大な海蛇は無数の光の粒子へと崩れ落ち、宝石の雨となって穏やかな海へと還っていった。
戦乱が終わり、あっくんが崩れ落ちるように片膝をつく。
そこへ、光のゲートを閉じた勇者リオルが、静かな足取りで歩み寄った。
「……ふん。余の門出にわざわざ馳せ参じるとは、お前も物好きだな、リオル」
あっくんは荒い息を吐きながら、不敵に、けれどどこか親愛の情を込めて口角を上げた。
リオルは差し出されたあっくんの手を取り、力強く引き上げる。
「やれやれ、相変わらずだな……友の晴れ舞台だ。このくらいの余興、片付けないわけにはいかないだろ?」
かつて異世界の転移室で交わした「友」としての約束。
あの時、握り合った手の熱が、今再び二人の間に流れる。
「……助かった。お前の光がなければ、この世界を汚すところだった。礼を言うぞ、リオル」
「礼なんていいさ。ただ……少しばかり、タキシードを汚しすぎたな。アークロン、お前はもう『魔王』じゃない。『一人の男』として、彼女を幸せにする義務があるんだから」
リオルはそう言って、駆け寄ってくるみのりの姿を見て、優しく目を細めた。
あの日、道を間違えたままぶつかり合っていた二人はもういない。
今は互いの守るべき場所のために、誇りを持って背中を預け合える。
「……ああ。この世界も、彼女も、余が死守する……リオル、お前も息災でな」
「ああ、またな……お幸せに、アークロン」
勇者は満足げに頷くと、再び光の中へと溶けるように消えていった。
そこへ、汚れを厭わずドレスの裾を翻し、みのりが駆け寄った。
「あっくん! 怪我、見せて……!」
「……案ずるな。余の王妃を守り抜けたのなら、この程度の傷、勲章にもならぬ」
あっくんは、血に汚れた指先で、そっとみのりの頬に触れた。震える彼女を安心させるように、その瞳には深い慈愛が宿っている。
「……綺麗だ。たとえ世界が終焉を迎えても、余の花嫁は……貴女だけは、何よりも美しい」
ボロボロのチャペルに、祝福の陽光が降り注ぐ。
戦火を越えて結ばれた二人の絆は、もう誰にも、運命にさえも引き裂くことはできない。




