第115話 白金の約定と魔王の決断――十一月の夜、震える指先と未来の形
ジュエリーショップで交わされた、あまりにも傲慢で、けれど熱烈なプロポーズ。
あっくんは、その場で最高級のダイヤが煌めく指輪を「これだ」と即決し、一切の迷いなく購入した。
アパートに帰宅したみのりは、玄関で靴を脱ぐのも忘れたまま、自分の左手を見つめて立ち尽くしていた。
薬指に収まった白金の輪は、部屋の照明を反射して、現実とは思えないほどの輝きを放っている。
「……夢じゃ、ないよね?」
みのりは、空いている方の手で自分の頬を思い切りつねった。
「痛っ……! ……うん、痛い。本当に、現実なんだ」
じわじわと、指先から熱が全身に回っていく。
つい数時間前まで、海で巨大なサメの化け物と戦い、母がパイプでトドメを刺すというカオスな状況にいたはずなのに。
今は、隣に座る男の「王妃になれ」という言葉が、頭の中で何度もリフレインしていた。
「わ、私……本当に、魔王の嫁になるの……!?」
実感が湧いた瞬間に、今度は猛烈なパニックが襲ってきた。
「待って、種族が違うのはいいとして……戸籍とか、住民票とか、どうなってるの!? 法的に結婚できるの!? 『職業:魔王』で受理されるわけないし、あっくん、そもそもこの世界の身分証持ってないよね……!?」
頭を抱えて部屋を往復するみのり。そんな彼女を余所に、あっくんはソファにどっしりと腰を下ろすと、いつの間にかコンビニで購入していた『ゼフシィ』をパラパラと捲り始めた。
「みのり、静かにせよ……ふむ。この『披露宴』という儀式、招待客の配置に軍事的なバランスが必要なようだな。ルカに座席表の戦略的立案を命じねばならん」
「え、ちょっと……あっくん? それ、読んでるの……?」
「当然だ。余の伴侶となる以上、この世界の流儀に則った最高位の儀礼を行う必要がある……この『仲人』という役職、お父上とお母上を据えるのが妥当か? いや、あの二人の戦闘力を考えると、式の進行を支配される恐れがあるな……」
あっくんの目は真剣そのものだった。
どうやら、さっきのプロポーズは一時の気の迷いなどではなく、彼の中ではすでに「不可逆の統治計画」として進行しているらしい。
「ほ、本気なんだ……!」
みのりは、真面目な顔で結婚情報誌を読み耽る魔王の姿を見て、改めて事の重大さを悟った。
魔王と人間。異世界と現代。
あまりにも高いハードルを、あっくんは力技で飛び越えようとしている。
パニックは収まらない。けれど、指輪の重みを感じるたびに、みのりの胸には不安を上回るほどの、温かくて不器用な愛しさが込み上げていた。
リビングのソファで、あっくんが真剣な面持ちで読み耽っている分厚い雑誌。
その表紙に踊る「結婚」の文字を見て、ルカくんとリュカくんが息を呑んだ。
「……ア、アークロン様。それは、もしや……」
ルカくんがその端正な顔を驚きに染める。
あっくんは視線を雑誌に落としたまま、重厚な声で応じた。
「うむ。ルカ、これより余はこの世界の婚姻の礼典に従い、みのりを正式な王妃として迎える。ルカには式典における魔力的防護と、座席配置の軍事的監修を命ずる」
「……っ、ついに! ついにこの日が来たんですね! ルカルド・アーヴァイン、この命に代えても至高の婚儀を演出してみせます!」
ルカくんは感極まった様子で胸に手を当て、深く頭を下げた。
その澄んだ瞳には、主君の幸せを願う忠臣としての熱い光が宿っている。
「アークロン様、みのりさん……本当におめでとうございます! 僕、お二人の幸せそうな姿を見るのが、ずっと夢だったんです……!」
リュカくんも花が咲いたような笑顔を浮かべ、みのりの手を取らんばかりの勢いで祝福の言葉を贈る。
「たぬ! タヌロフも嬉しいたぬ! 今日からみのりは、王妃様だぬー!」
タヌロフがみのりの足元で尻尾を激しく振り、喜びを爆発させている。
みんなの温かい、迷いのない言葉を聞いているうちに、みのりの頭を支配していたパニックは、凪のように静まっていった。
(……ああ、そうか。種族とか、戸籍とか。大変なことはいっぱいあるけど……みんなが味方でいてくれるんだ)
みのりは、左手の薬指で輝く指輪をそっと撫でた。
不安は消えたわけではない。けれど、それ以上に自分がどれほど愛され、望まれているのかが、ようやく胸の奥にまで染み渡ってきた。
「みんな、ありがとう……あっくんを信じて、私、頑張ってみるね。世界一幸せな王妃様になれるように」
みのりが満面の笑みで感謝を伝えると、あっくんはフンと鼻を鳴らし、隣のスペースをポンと叩いた。
「みのり。いつまで突っ立っている……余の隣に来い。この『ゲストハウス』とやらと『ホテルウェディング』どちらが王妃の威光を示すに相応しいか、みのりの意見も聞かねばならん」
「あはは、もう選んでるの? ……えっと、私はね、こっちの緑が見える式場も素敵だと思うな」
みのりはあっくんの隣に腰を下ろし、一緒にゼフシィのページを捲り始めた。
「ふむ。この森のような空間か……伏兵の配置には向かぬが、みのりの笑顔は映えそうだな」
「もう! 戦場じゃないんだから!」
窓の外では、十一月の冷たい風が街を通り抜けていく。
けれど、コタツを囲むこの一角だけは、春を先取りしたような、優しく、けれど力強い決意の熱に包まれていた。
二人の歩む新しい歴史の第一頁が、今、静かに捲られたのだ。




