第111話 深海の幻想と魔王の好奇心――静かに迫る「集合」の時
九月。
秋風が心地よい季節。
あっくんとみのりは、連休を利用して水族館へとデートにやってきた。
薄暗い館内は、巨大な水槽から放たれる青い光に満ちて、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「うわぁ、綺麗……! あっくん、見て見て、あそこに大きなマンタがいるよ!」
みのりは巨大なアクリル越しに優雅に泳ぐエイに目を輝かせた。
手には、水族館のショップで買ったイルカのキーホルダーを握っている。
「ふむ。この『水槽』なる結界、魔力によるものか。これほどの広大な空間を閉じ込める術式……ルカに研究させる価値がありそうだな」
あっくんは、泳ぎ回る魚たちよりも、分厚いアクリルの壁に興味津々だ。王としての分析欲が刺激されている。
やがて、二人は色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ水槽の前に立ち止まった。
「あっくん、この魚、すごくカラフルだね。まるで宝石みたい」
みのりが指差す先にいたのは、蛍光色の青や赤、黄色が入り混じった小さな魚たちだった。
「……ほう。この魚ども、全身に『擬態魔法』を施しているのか。捕食者から身を守るための巧妙な術式だな。だが、これでは毒があるのか無害なのか、判別しづらい。魔王としては警戒すべき存在だ」
あっくんは真剣な顔で魚たちを観察し、メモを取り始めた。
隣のみのりが「あっくん、これは擬態魔法じゃなくて、もともとの色だよ」と説明しても、聞く耳を持たない。
さらに進むと、クラゲが展示されたエリアに辿り着いた。
ゆらゆらと光りながら漂う無数のクラゲは、まるで宇宙空間を漂う星々のようだ。
「あっくん、見て。クラゲだよ! ふわふわしてて、綺麗だね」
「……この『クラゲ』なる生命体、体内に魔力炉でも搭載しているのか? 自力発光するとは、魔界の深海にも珍しい存在だ。しかも、この触手……麻痺毒でも分泌するのではないか? 迂闊に手出しはできんな」
「あはは、あっくん。クラゲは魔力炉じゃなくて、体の構造がそうなってるんだよ。毒がある種類もいるけど、これは大丈夫だよ」
みのりは、あっくんの反応に思わず笑みがこぼれる。
あっくんは、そんなみのりを見て、少しだけ眉を下げた。
「余を笑うのか、みのり。余は真剣にこの世界の生態系を分析しているのだぞ」
「ごめんごめん。でも、あっくんが色々なことに興味持ってくれて、嬉しいなと思って」
みのりがそっと手を握ると、あっくんは少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……余も、この得体の知れぬ世界を知ることは、決して無駄ではない。特に、みのりがその輝く瞳で見つめるものならばな」
あっくんは、目の前の水槽を優雅に泳ぐ魚たちではなく、隣で微笑むみのりの横顔をじっと見つめていた。
◇
水族館を出ると、外には穏やかな秋の海が広がっていた。
水平線に沈みゆく夕日が海面を朱色に染め、潮風が二人の髪を優しく揺らす。
みのりは防波堤の手すりに身を乗り出し、「海って、やっぱりいいよね」と満足げに息をついた。
だが、その隣で海面を見下ろしていたあっくんの表情が、一瞬で険しいものへと一変した。
その鋭い瞳は、悠々と泳ぐ回遊魚の群れの影に隠れ、異質な動きを見せる「何か」を捉えていた。
(……混じっているな)
それは、この世界の生態系には決して存在し得ない、どす黒い魔力を纏った魚型の魔物だった。
一匹一匹は弱小だが、それらは意志を持っているかのように一箇所へと集まり、海中の特定の位置で渦を巻いている。
「あっくん? どうしたの、そんなに怖い顔して」
みのりが不安そうに顔を覗き込む。あっくんは反射的に海へ飛び込み、その不浄な存在をすべて焼き尽くそうと魔力を練りかけたが、すぐに踏み止まった。
今はデートの最中であり、周囲には大勢の人間がいる。
ここで魔王としての力を解放すれば、みのりが望む「平和」を自らの手で壊すことになりかねない。
「……いや、何でもない。ただ、少々目障りな雑魚が群れているのが見えただけだ」
あっくんは努めて冷静に答えたが、その眉間の皺は深く刻まれたままだった。
最近、魔獣を見なくなったと思っていたのは錯覚だったのだ。奴らは消えたのではない。人目に触れぬ場所へ潜み、何か一つの「強大な意思」に導かれるように、力を蓄え、集結し始めている。
あっくんは無言のまま、みのりの肩を引き寄せ、己の体温を伝えるように強く抱き寄せた。
その腕には、愛しい者を何があっても守り抜くという、決意が込められていた。
「みのり……帰るぞ。今日はもう、十分この世界を堪能した」
「う、うん。あっくん、みんなみてるよ……」
みのりが少し照れくさそうに笑う。
その無垢な笑顔を見つめながら、あっくんは心の奥底で、かつてないほど巨大な「敵」の気配を、冷たく、静かに見据えていた。
水平線の向こう、夕闇が迫る海は、すべてを飲み込むほどに深く、暗い。
平穏な日々に、目に見えぬ亀裂が入り始めていた。




