第104話 理性の決壊――ルカが見せた、計算不能な涙の温度
ある週末、ルカと真帆は駅前のシネマコンプレックスを訪れていた。
「ルカくん、今日は私が選んでいい? これ、SNSで『とにかく泣ける』って話題なのよ」
「構いませんよ、真帆さん。ですが、物語の構造には一定のパターンがあります。感情の起伏も、脚本術における予定調和に過ぎません。僕が涙を流す確率は……限りなくゼロに近いでしょう」
ルカはいつものように冷静に分析してみせた。
上映開始前、二人は売店に立ち寄った。
ルカは真帆の好みに合わせて、キャラメル味と塩味のハーフ&ハーフのポップコーンを迷いなく注文する。
「真帆さん、糖分と塩分のバランスはこれで最適です。映画の後半、血糖値が下がる時間帯に備えて……」
「もう、ルカくん。デートなんだから、もっと理屈抜きで楽しみましょうよ」
真帆がクスクス笑いながらポップコーンを一つ、ルカの口元へ運ぶ。
ルカは一瞬戸惑いつつも、素直にそれを食し「……真帆さんが選んだものなら、味の構成も完璧ですね」と、少しだけ表情を緩めた。
そして、上映開始から二時間後。
「……う、ううぅ……っ。ひぐっ……、あぁぁ……っ!」
劇場の明かりが点いた瞬間、隣の席で嗚咽を漏らして崩れ落ちているルカの姿があった。
「ちょ、ルカくん!? 大丈夫!?」
「真帆さん……っ、家族の絆……そして、あのラストの自己犠牲……確率論やロジックでは説明できない……魂の救済が、そこにはありました……っ!」
劇場を出てロビーのベンチに座らせても、ルカの涙は止まらない。
ハンカチはすでに絞れるほどに濡れ、彼は鼻を赤くしながら、何度も何度も込み上げる感情を吐露していた。
「……もう、可愛すぎるわね、ルカくん」
真帆は、普段の「冷静な知略家」の影も形もない彼の頭を、優しく自分の肩に引き寄せた。
「あの……真帆さん……僕としたことが、人前でこのような醜態を……真帆さんに、呆れられてしまいましたよね……」
「まさか。ルカくんがこんなに感受性豊かだなんて、もっと好きになっちゃったわ……ほら、鼻かみなさい?」
真帆がお姉さんらしくティッシュを差し出すと、ルカは「……失礼します」と力なく鼻をかみつつ、さらに真帆の肩に深く顔を埋めた。
「……しばらく、このまま……僕のバイタルサインが正常に戻るまで、こうさせてください……」
「いいわよ。今日は一日中、よしよししてあげる」
そんな二人を、例によって(あっくんに頼まれて様子を見に来ていた)リュカとタヌロフが、少し離れた柱の陰から見ていた。
「……兄さんが、あんなに泣くなんて。あっちの世界での兄さんなら、感動シーンを『時間の無駄』と切り捨てていたはずなのに……愛は、人をも変えてしまうんですね……」
リュカが、絵莉に会いたい気持ちを募らせながら、ポツリと呟く。
「……本当たぬ。それにしても、ルカは鼻水の拭き方さえもどこか几帳面だぬ」
タヌロフが呆れ半分に見守る中、ルカの「涙のクールダウン」は、結局その日のデートの最後まで続くことになるのだった。
◇
映画を観てから何時間が経過しただろうか。
真帆は、肩に顔を預けて小刻みに震えているルカの背中を、赤ん坊をあやすように優しくトントンと叩いていた。
「もう大丈夫よ、ルカくん。映画のあの子たちは、きっと天国で幸せに暮らしてるわ。ね?」
「……ですが、真帆さん……っ。あの時、彼が右の道を選ばなければ……っ。計算上、生存確率は40%も残されていたはずなのに……彼は、愛のために……うぅっ!」
「そうね、愛のためにね。ルカくんも同じくらい、私を愛してくれているものね?」
真帆がルカの顔をそっと覗き込み、濡れたまつ毛を指先で拭ってあげる。そして、真っ赤な鼻を指先でツンとつついた。
「いつまでも泣いてたら、私、置いていっちゃうわよ? いつものルカくんに戻って、私をエスコートしてくれないかしら」
真帆の悪戯っぽくも慈愛に満ちた瞳に見つめられ、ルカは大きく一度深呼吸をした。
肺の中に冷たい空気が入り込み、暴走していた感情の演算がようやく収束していく。
「……失礼いたしました、真帆さん……もう、大丈夫です。貴女を不安にさせるなど、男としてあってはならないことでした」
ルカは真帆の差し出したティッシュで最後にもう一度だけ鼻をかむと、覚悟を決めたように立ち上がり、真帆に向かって優雅に手を差し出した。
「お待たせいたしました。残りのデートプランを再構築します。次は、真帆さんがお好きだと言っていたスイーツのお店へ……もちろん、僕の完璧なエスコートと共に」
まだ少し目が赤く、鼻声ではあったが、そこにはいつもの誇り高いルカの姿が戻っていた。
真帆はその手を嬉しそうに取り、彼の腕にしっかりと抱きついた。
そんな二人を、柱の陰から見守っていたリュカとタヌロフは、静かにその場を立ち去ろうとしていた。
「……ルカも、すっかり真帆さんの手のひらの上たぬ。これで魔王軍は、また一段と尻に敷かれる男が増えたたぬ」
「あはは……でも、幸せそうですね。僕も、絵莉さんに『よしよし』してもらいたくなってきちゃいました……」
夕暮れの街へと消えていく、一人の魔族と一匹のたぬき。
愛という未知の数式に翻弄されながらも、魔王軍の日常は、今日も誰かの優しさに包まれて優しく幕を閉じるのだった。




