第101話 朝の頭痛と王の憤慨――二日酔いが生んだ初めての不協和音
翌朝、リビングに足を踏み入れた瞬間、みのりは凍り付いた。
あっくんが窓際で腕を組み、外を眺めている。その背中からは、かつて異世界を震え上がらせたであろう、重く鋭い圧が放たれていた。
「……起きたか」
振り返ったあっくんの瞳は、これまでに見たことがないほど冷徹だった。
「あっくん、あの、おはよう……昨日は、その……」
「何だ? ……昨夜、店に迎えに行った余を差し置いて、みのりが隣のテーブルの男に縋り付き、抱きついた件か?」
みのりの心臓が跳ねた。そうだ、断片的な記憶が繋がっていく。
あっくんが迎えに来てくれた嬉しさで、視界が滲む中、黒い服を着た背の高い男を見つけて「あっくん!」と飛びついたのだ。
だが、それは全く見ず知らずの、ただのサラリーマンだった。
「……あれは、その、あっくんだと思って! 背格好が似てたから、間違えちゃって……!」
「……間違えた、で済む問題ではない。余が目の前にいたというのに、みのりは他の男の腕の中に自ら飛び込んだ……余という存在がありながら、あのような無防備な姿を晒し、他者の体温を求めたのか?」
あっくんの声は低く、地を這うように響く。
それは単なる「不機嫌」ではなかった。みのりを誰よりも大切にし、独占したいと願う魔王としての、深い嫉妬とプライドの傷跡だった。
「違うの! 本当に、あっくんだと思ったからで……!」
「……今のみのりの言葉は、余の心に一向に響かぬ」
あっくんは静かに視線を逸らした。いつもなら、言い訳をするみのりの頭を「次は気をつけよ」と撫でてくれるはずなのに、今はその指先一つ触れようとしない。
「……本当にごめんなさい……で、でも、そんなに冷たくしなくてもいいじゃない! 好きだから……間違えちゃったんだもの……」
「……好きだから、誰でも良いということか……失望したぞ、みのり」
あっくんはそれだけ言い残すと、みのりの横をすり抜け、玄関へと向かった。
「……ちょっと、あっくん! どこ行くの!」
「……頭を冷やしてくる。みのりの顔を見ていると、余の中の魔力が抑えきれそうにない」
バタン、と重い音を立ててドアが閉まる。
一人残されたリビングで、みのりはソファに崩れ落ちた。二日酔いの頭痛と、胸の奥を締め付けるような寂しさが混ざり合い、視界がじわりと滲んでいく。
「……あっくん……」
◇
あっくんは冷たい風の中、一人で街を歩きながら、胸の奥を焦がすような自己嫌悪に陥っていた。
「……余としたことが」
脳裏に浮かぶのは、今朝の別れ際のみのりの顔だ。
泣いてはいなかった。だが、彼女の瞳には深い悲しみと、縋るような色が混じっていた。
かつて、みのりのお父上と交わした「決してこの娘を泣かせぬ」という誓い。
たとえ実際に涙を流させていなくとも、その心をこれほどまでに沈ませてしまった事実は、魔王として、そして男として、敗北にも等しかった。
「嫉妬に狂い、愛する女を不安に陥れるなど……真の王がすることではない」
不甲斐なさに拳を握りしめ、あっくんは踵を返した。
向かったのは、みのりが以前「二日酔いの時はこれが一番効くんだよ」と笑って教えてくれた、経口補水液や冷たいゼリーが並ぶ棚だった。
◇
一方、家で一人リビングのソファにうずくまっていたみのりは、玄関の鍵が開く音に肩を跳ねさせた。
「……あっくん?」
戻ってきた彼は、先ほどまでの刺すような冷気は消え、どこか気恥ずかしそうな、それでいて必死に威厳を保とうとする複雑な表情をしていた。
彼は無言のまま、買ってきたビニール袋をテーブルに置く。
「……まだ頭痛は引かぬのだろう。これを摂取せよ。余の不在の間、容態が悪化しては寝覚めが悪い」
「……あ、ありがとう……あっくん、怒ってないの?」
みのりが恐る恐る尋ねると、あっくんはふいと目を逸らし、彼女の隣に腰を下ろした。
「……怒ってはいる。みのりが他者に抱きついた事実を思い出すだけで、この街を魔力で消し飛ばしたくなるほどにな……だが、それを理由にみのりに冷たくし、悲しませることは、余の誇りが許さぬ。余は、みのりを幸せにすると誓った身なのだから」
あっくんは大きな手で、みのりの頭を優しく、包み込むように撫でた。
「すまなかった、みのり。余としたことが、心の器が狭すぎたようだ……許せ」
「ううん、私こそごめんね。あっくんにすごく甘えてた……もう、絶対に間違えたりしないから」
みのりが彼の腕に顔を埋めると、あっくんは今度は拒絶することなく、愛おしそうに彼女を抱き寄せた。二日酔いの辛さが、彼の体温に溶かされていく。
「……ふむ。ならば、その誓いを証明せよ。今日一日は、余の傍から離れることを禁ずる……これが、余からの罰だ」
少しだけ独占欲の滲む、いつもの甘い「魔王」の声。
冬の陽光が差し込むリビングで、二人は喧嘩の余韻を温かな抱擁で塗り替えていった。




