第99話 流星の誓い――魔王、コートの中で愛を囁く
温泉旅行から数日が経ち、魔王軍の拠点であるアパートには、以前よりもどこか落ち着いた、それでいて色鮮やかな空気が流れていた。
みのりはキッチンの椅子に腰掛け、コーヒーを淹れながら、最近の彼らの変化について思いを馳せていた。
まずは、ルカくんだ。彼は真帆さんと付き合い始めてから、以前の「理屈っぽさ」はそのままに、より一層「しっかり者」としての自覚が増したように見える。
「みのりさん、備蓄の洗剤の在庫を最適化しておきました。真帆さんに『家事ができる男は素敵よ』と言われましたので……これからは僕が、この家の管理をより完璧に遂行します」
そう言ってキリッとした表情で在庫表をチェックするルカくんの背中は、どこか誇らしげだ。
年上の真帆さんに相応しい男になろうとする彼の努力は、傍から見ていて微笑ましく、頼もしい。
一方で、リュカくんの変化はまた別の方向だった。
「みのりさん……見てください。絵莉さんが、僕に似合うって選んでくれた入浴剤です……ふわふわの泡に包まれて、絵莉さんのことを考えていると、僕、本当に幸せで……」
絵莉と付き合ってからのリュカくんは、以前にも増して「ふわふわ」としたオーラを放っている。
元から浮世離れしていたが、今は幸せという名の雲の上を歩いているかのようだ。
彼が歩くだけで、部屋の中に目に見えない花が咲いているような錯覚すら覚える。
それぞれが愛を知り、成長し、あるいはより自分らしくなっていく。
そして――この人もまた、変わった一人だった。
「……みのり。何を一人で考え込んでいるのだ」
背後から低く、心地よい声が響いた。
振り返るよりも早く、厚い胸板の温もりが背中に押し当てられる。力強い腕がみのりの腰を包み込み、耳元であっくんが静かに息を吐いた。
「あっくん……びっくりした、どうしたの?」
「ふむ。スーパーのパートという者たちから、菓子を預かってきた。『いつも頑張っているアツシさんに』だそうだ。一人で食すには、少しばかり甘すぎる」
あっくんはみのりの肩に顎を乗せ、バックハグの体勢のまま、小袋に入ったクッキーを差し出した。
かつての彼なら、貰ったものは淡々と報告するだけだったはずだ。
しかし今の彼は、こうして「二人で共有する時間」を自ら作り出そうとする。
「……余と共に食べないか? 余の隣には、やはりみのりがいなければ、菓子の味も完成せぬ」
「……もう、そういうこと、どこで覚えてくるの?」
みのりが顔を赤らめて笑うと、あっくんは満足げに彼女の首筋に鼻先を寄せた。
「ふっ。余は常に進化し続ける王だ。愛する女を喜ばせる術を学ばぬ王などおらぬ」
腕の中に収まるみのりの温もりを感じながら、あっくんは穏やかな笑みを浮かべた。
外は冷え込んできたけれど、この部屋の中だけは、どんな魔法よりも温かな、甘い空気が満ちていた。
◇
あっくんの腕の中で温まりながら、ふと視線を向けたテレビのニュース番組が、季節の風物詩を報じていた。
「……あ、見て、あっくん。もうすぐ『しぶんぎ座流星群』が見頃なんだって」
みのりの言葉に、あっくんは彼女の肩に顎を乗せたまま、画面をじっと見つめた。
「流星群か……空から無数の光が降り注ぐ、あの現象のことだな。余の世界では吉兆、あるいは強大な魔力が動く前触れとされていたが、この世界ではどうなのだ?」
「この世界ではね、流れ星にお願いごとをすると叶うって言われてるんだよ。寒いけど、ベランダからなら見えるかな……」
みのりが窓の外を伺おうとすると、腰に回されたあっくんの腕に、ぐいと力がこもった。
「ベランダなどと、味気ないことを言うな……みのり、今夜はこれから余と共に、この街で一番空に近い場所へ赴かぬか?」
「えっ、今から? でも、外はすごく寒いよ?」
「案ずるな。余がみのりを凍えさせるはずがなかろう」
不敵に微笑むと、あっくんはみのりの体をくるりと自分の方へ向けた。至近距離で見つめられて、みのりは思わず息を呑む。
「余の隣で、余と共に星を数えよ。願いごととやらも、好きなだけすれば良い……余が聞き届けられるものであれば、星に頼るまでもなく、余がこの手で叶えてやろう」
かつての彼なら「星になど頼らず余に言え」と断言していただろう。
だが今の彼は、みのりが抱くロマンチックな願いごとすらも、包み込むような優しさで受け入れている。
「……わかった。じゃあ、うんと厚着して行こうね。タヌロフたちも誘う?」
「……いや。今夜は、余とみのりの二人だけで良い」
耳元で囁かれた低く甘い声。
ルカくんやリュカくんの変化も劇的だったけれど、やはり一番大きく、そして素敵に変わったのは、目の前の「独占欲の強い魔王様」なのだと、みのりは確信した。
◇
夜の静寂に包まれた高台の公園。
街の明かりが遠くに見えるその場所は、空が驚くほど広く、降り注ぐような星々に手が届きそうだった。
あっくんは自分の大きなコートの片側を広げると、みのりをその中に招き入れた。
「……ふむ、余の体温が伝わっておるか? これならば、寒風も魔王の威光を前に退くであろう」
みのりはあっくんの厚い胸板に背中を預け、一つの大きなコートに二人でくるまりながら、夜空を見上げた。
「あったかい……本当に贅沢な特等席だね、あっくん」
澄み渡った闇の向こうから、一筋の光が尾を引いて流れた。
「あ! 今、流れたよ! ……お願いごと、しなきゃ」
みのりが慌てて目を閉じ、手を合わせる様子を、あっくんは愛おしそうに見つめていた。
やがて彼女が目を開けると、あっくんはポツリと、夜空を見上げたまま語り始めた。
「……みのり。余はかつて、玉座の上からただ広大な領土と、跪く民を眺めることだけが王の証明だと思っていた。だが、この世界に来て、みのりと出会ってからは……その考えは塵に等しいと悟ったのだ」
「あっくん……?」
あっくんは、みのりの髪をそっと撫で、その頬を大きな手で包み込んだ。
「真の強さとは、力で他者を屈服させることではない……たった一人の大切な存在を、その隣で、生涯絶やすことなく笑わせ続けること。それこそが、何物にも代えがたい至上の勝利なのだ」
低く、どこまでも誠実な声。
「みのり。余が守るべき世界とは、みのりが笑っていられる、この半径数メートルの光景そのものだ……だから、星に願うまでもないと言ったのだ。余がいる限り、みのりに絶望という名の闇は一歩たりとも近づかせぬ」
みのりは胸がいっぱいになり、あっくんの腰に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返した。
「……あっくん。そんなこと言われたら、私、これからもっとワガママになっちゃうよ?」
「ふっ、望むところだ。余を困らせるほど、魔王としての腕の見せ所というものだからな」
空には、次から次へと光の粒が流れていく。
変化していくルカくんやリュカくん。そして、誰よりも強く、優しく変わったあっくん。
二人の願いを乗せた夜は、流星の輝きと共に、どこまでも深く、甘く更けていった。




