神の不協和音
彼は、世界で最も信仰心のあつい男だった。
名はマルセロ・エリアス。南アメリカの高原にある小さな村の司祭である。生まれたときから教会に育ち、朝な夕なに祈りを捧げ、聖書を千回以上読破し、教義を一字一句たがえず記憶していた。
マルセロの名を聞けば、人々は「神に最も近い男」と口をそろえて言った。だが、彼はそれを誇ることもせず、ただ静かにこう言った。
「私は神に近づこうとしているにすぎません。神と同じ場所に立つことなど、誰にもできません」
その謙虚さも含めて、人々は彼を尊敬した。
ある日、神学生のひとりがマルセロにこう尋ねた。
「神は、なぜ私たちの前に姿を現さないのでしょうか?」
マルセロはにっこりと笑って言った。
「神は試しておられるのです。姿が見えなくても信じることが、真の信仰なのです」
村人はその答えに満足し、祈り続けた。雨が降らなければ、神の思し召し。病気になっても、神の試練。子が死ねば、神の計画。
だが、マルセロだけは、ある時期から疑念を抱いていた。
──神は本当に、いるのだろうか?
否、信仰は揺らいではいない。ただ、その姿を一度でも見てみたい。声を、一言だけでも聞いてみたい。長年の祈りが、果たして届いているのかを、知りたかった。
しかし、神は沈黙したままだった。
数年が経ち、世界は変わり始めた。
宗教の影響力は衰え、合理主義と科学信仰が台頭した。AIによる自動説教生成、礼拝のオンライン化、仮想空間での信仰体験。人々は利便性と視覚的演出を重んじ、「神は感じるもの」から「見せるもの」に変わっていった。
マルセロの教会は、古びた石造りのまま、時代に取り残された。礼拝に来る人もまばらになり、司祭の周囲には沈黙だけが残った。
それでも彼は祈り続けた。
神よ、
あなたの沈黙は、私への試練でしょうか。
それとも……見捨てられたのでしょうか。
ある晩のことだった。
マルセロは夢を見た。漆黒の空間に、一つだけ輝く光。それが近づき、声が聞こえた。
「マルセロ・エリアス。そなたの信仰、しかと見届けた」
マルセロは震えながら言った。
「あなたが……神なのですか?」
「そうだ」
「長い間、祈ってまいりました。あなたはずっと沈黙を……」
「沈黙は、最も深い言葉なのだ」
「私は……なぜこの声を今、聞いているのですか」
光はこう言った。
「その答えを、現世で知ることはできぬ」
目が覚めたとき、マルセロの目には涙がにじんでいた。胸が激しく鼓動し、血が駆け巡るのを感じた。
ああ、神は存在する。確かに、今、私は……神と通じた。
それ以来、マルセロの表情は穏やかになった。説教の言葉は柔らかく、祈りの声には喜びが満ちていた。かつての厳格さが消え、神の愛を包み込むような優しさへと変わった。
村人たちは噂し合った。「マルセロ司祭は、神に触れたのだ」と。
ところが、それから一年ほどして、奇妙な出来事が起きた。
マルセロの周囲に、不審な死が続いたのである。
献身的な信者が交通事故で亡くなり、神学校の若き学生が心不全で倒れた。孤児院のシスターが突然の病に倒れ、マルセロの親族も、理由不明の死を遂げた。
誰もが「偶然だ」と言った。
マルセロも最初はそう信じた。
しかし──彼の心にある違和感が芽を出す。
死んだのは、みな神を深く信じる者たちだった。
信仰を持たぬ者は生き残っていた。
マルセロは再び祈った。夜通し、声が枯れるまで祈った。神の意志を問うた。彼らの死の意味を問うた。
そして、ある夜、ふたたび夢の中に、あの光が現れた。
「マルセロ・エリアス。そなたの問いに答えよう」
「なぜ……信じる者が殺されるのです」
「それは、彼らが信仰を完成させたからだ」
「完成……?」
「信仰とは、証明されるべきではない。信じ続けることに意味がある。だが、神の存在を確信してしまった者に、もはや信仰は必要ない。だから私は、彼らを招いた」
「……あなたが、殺したのですか」
「招いたのだ。信仰が極まった者は、もうこの世に留まる必要がない」
「それは、愛ではありません……」
光は静かに言った。
「人は、私を愛と呼ぶ。だが私は、人の定義する愛とは異なる。私は、真理だ」
マルセロは言った。
「それなら、私はあなたを信じたことを……後悔するでしょう」
「その言葉が出た時点で、お前はもはや“最も信仰心のあつい者”ではなくなった」
「それでも……私がこの世に残ることで、信仰とは何かを伝えることができるはずです」
「それは傲慢だ」
翌朝、村の人々は、教会の祭壇の前に倒れたマルセロ・エリアスの遺体を見つけた。
死因は不明。外傷も毒も、何もなかった。
ただ、彼の顔には、安らぎでも苦悶でもない、どこか──深い絶望を宿した表情が残っていた。
手には、一枚の紙が握られていた。そこにはこう記されていた。
「神は、信じられるうちは神である。
だが、知ってしまえば、ただの真理にすぎない」
マルセロの死は、やがて伝説になった。
「世界で最も信仰心のあつい司祭が、神に殺された」と。
神を疑った者たちは、恐れおののいた。
神を信じた者たちは、静かに目を閉じた。
そして世界はまた、沈黙の中で、神の姿を探し続けた。




