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神の不協和音

掲載日:2025/10/11

 彼は、世界で最も信仰心のあつい男だった。


 名はマルセロ・エリアス。南アメリカの高原にある小さな村の司祭である。生まれたときから教会に育ち、朝な夕なに祈りを捧げ、聖書を千回以上読破し、教義を一字一句たがえず記憶していた。


 マルセロの名を聞けば、人々は「神に最も近い男」と口をそろえて言った。だが、彼はそれを誇ることもせず、ただ静かにこう言った。


「私は神に近づこうとしているにすぎません。神と同じ場所に立つことなど、誰にもできません」


 その謙虚さも含めて、人々は彼を尊敬した。


 ある日、神学生のひとりがマルセロにこう尋ねた。


「神は、なぜ私たちの前に姿を現さないのでしょうか?」


 マルセロはにっこりと笑って言った。


「神は試しておられるのです。姿が見えなくても信じることが、真の信仰なのです」


 村人はその答えに満足し、祈り続けた。雨が降らなければ、神の思し召し。病気になっても、神の試練。子が死ねば、神の計画。


 だが、マルセロだけは、ある時期から疑念を抱いていた。


 ──神は本当に、いるのだろうか?


 否、信仰は揺らいではいない。ただ、その姿を一度でも見てみたい。声を、一言だけでも聞いてみたい。長年の祈りが、果たして届いているのかを、知りたかった。


 しかし、神は沈黙したままだった。




 数年が経ち、世界は変わり始めた。


 宗教の影響力は衰え、合理主義と科学信仰が台頭した。AIによる自動説教生成、礼拝のオンライン化、仮想空間での信仰体験。人々は利便性と視覚的演出を重んじ、「神は感じるもの」から「見せるもの」に変わっていった。


 マルセロの教会は、古びた石造りのまま、時代に取り残された。礼拝に来る人もまばらになり、司祭の周囲には沈黙だけが残った。


 それでも彼は祈り続けた。


 神よ、

 あなたの沈黙は、私への試練でしょうか。

 それとも……見捨てられたのでしょうか。




 ある晩のことだった。


 マルセロは夢を見た。漆黒の空間に、一つだけ輝く光。それが近づき、声が聞こえた。


「マルセロ・エリアス。そなたの信仰、しかと見届けた」


 マルセロは震えながら言った。


「あなたが……神なのですか?」


「そうだ」


「長い間、祈ってまいりました。あなたはずっと沈黙を……」


「沈黙は、最も深い言葉なのだ」


「私は……なぜこの声を今、聞いているのですか」


 光はこう言った。


「その答えを、現世で知ることはできぬ」


 目が覚めたとき、マルセロの目には涙がにじんでいた。胸が激しく鼓動し、血が駆け巡るのを感じた。


 ああ、神は存在する。確かに、今、私は……神と通じた。


 それ以来、マルセロの表情は穏やかになった。説教の言葉は柔らかく、祈りの声には喜びが満ちていた。かつての厳格さが消え、神の愛を包み込むような優しさへと変わった。


 村人たちは噂し合った。「マルセロ司祭は、神に触れたのだ」と。




 ところが、それから一年ほどして、奇妙な出来事が起きた。


 マルセロの周囲に、不審な死が続いたのである。


 献身的な信者が交通事故で亡くなり、神学校の若き学生が心不全で倒れた。孤児院のシスターが突然の病に倒れ、マルセロの親族も、理由不明の死を遂げた。


 誰もが「偶然だ」と言った。

 マルセロも最初はそう信じた。


 しかし──彼の心にある違和感が芽を出す。


 死んだのは、みな神を深く信じる者たちだった。


 信仰を持たぬ者は生き残っていた。




 マルセロは再び祈った。夜通し、声が枯れるまで祈った。神の意志を問うた。彼らの死の意味を問うた。


 そして、ある夜、ふたたび夢の中に、あの光が現れた。


「マルセロ・エリアス。そなたの問いに答えよう」


「なぜ……信じる者が殺されるのです」


「それは、彼らが信仰を完成させたからだ」


「完成……?」


「信仰とは、証明されるべきではない。信じ続けることに意味がある。だが、神の存在を確信してしまった者に、もはや信仰は必要ない。だから私は、彼らを招いた」


「……あなたが、殺したのですか」


「招いたのだ。信仰が極まった者は、もうこの世に留まる必要がない」


「それは、愛ではありません……」


 光は静かに言った。


「人は、私を愛と呼ぶ。だが私は、人の定義する愛とは異なる。私は、真理だ」


 マルセロは言った。


「それなら、私はあなたを信じたことを……後悔するでしょう」


「その言葉が出た時点で、お前はもはや“最も信仰心のあつい者”ではなくなった」


「それでも……私がこの世に残ることで、信仰とは何かを伝えることができるはずです」


「それは傲慢だ」




 翌朝、村の人々は、教会の祭壇の前に倒れたマルセロ・エリアスの遺体を見つけた。


 死因は不明。外傷も毒も、何もなかった。


 ただ、彼の顔には、安らぎでも苦悶でもない、どこか──深い絶望を宿した表情が残っていた。


 手には、一枚の紙が握られていた。そこにはこう記されていた。


 「神は、信じられるうちは神である。

  だが、知ってしまえば、ただの真理にすぎない」


 マルセロの死は、やがて伝説になった。


 「世界で最も信仰心のあつい司祭が、神に殺された」と。


 神を疑った者たちは、恐れおののいた。

 神を信じた者たちは、静かに目を閉じた。


 そして世界はまた、沈黙の中で、神の姿を探し続けた。

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