乾いた溺死
「……溺死? どうやって……?」
電話の向こうで絞り出すような声を上げたのは、先に現場に到着していた相棒の佐倉美月だった。彼女の動揺が、ノイズ混じりの音声からでも痛いほど伝わってくる。警視庁捜査一課の刑事、高野誠は、スバルWRXの運転席で無意識に眉を寄せていた。
西新宿、高層オフィスビル二十三階、男性の死体。
そこまでは、聞き慣れた事件の一報だ。
だが、その後に続いた美月の報告が、十五年の刑事経験で培われた高野の常識を、いとも容易く破壊した。
『現場に、水は一滴もありません。カラカラに乾いてます』
到着した現場は、美月の報告通り、異常なほどドライだった。
「被害者は長谷部和也、三十四歳。このフロアのIT企業のシステムエンジニアです。第一発見者は同僚で、出勤したところ、被害者が机に突っ伏していた、と」
オープンオフィスにずらりと並んだデスクの一つ。そこに、男が突っ伏すようにして死んでいた。
まるで、安らかに眠っているかのように。
「殺しの線は?」
「外傷、抵抗痕はなし。室内が荒らされた形跡もありません。現状、事件性は低いと判断されています。でも……」
美月は言葉を濁し、高野と同じように死体を見つめた。事件性がないのなら、これは何だというのか。
空調の効いたオフィス。窓の外には精巧なジオラマのような都市が広がり、床のタイルカーペットは静電気を帯びてパチパチと微かな音を立てている。
年配の鑑識官が高野のそばに寄り、誰に聞かせるでもなく、しかし確信を帯びた声で囁いた。
「解剖してみないと断定はできませんが、状況から見て、死因は溺死で間違いないかと。しかも、おそらく塩水、いや、海水……」
鑑識官はそこで言葉を切り、高野の顔をじっと見つめた。
「潮の香りがするでしょ?」
その言葉に促され、高野は微かに鼻をひくつかせた。乾燥しきったオフィスに満ちているのは、空調の機械的な匂いと、微かな埃の匂いだけのはずだった。だが、意識を集中させると、確かに鼻の奥に、まとわりつくような磯の気配を感じる気がした。
彼は何も答えず、ただ男の死体を見つめた。
ブブッ
ポケットのスマートフォンが一度だけ短く震えた。
入院中の息子を見舞う妻からの、定時のメッセージだった。『今日も変わりないよ』。その短い報告が、今は鉛のように重かった。
窓の外には、無数の人間が無関心にうごめく巨大な都市。人はこれを東京砂漠と呼ぶ。そして今、その砂漠のど真ん中で、男は溺れて死んでいた。
そのワイシャツには、乾ききったコーヒーの染みが一つ。それだけだ。
まるで、男の身体の内側だけで、局地的な豪雨でもあったかのように。
そして、彼の視線は、点けっぱなしになっていたノートパソコンのスクリーンに吸い寄せられた。
そこには、ただ青い海の映像が、単調な音を立てて、寄せては返す。
それだけを、延々と。
まるで、この乾ききったオフィスで唯一の、巨大な水源のように。
◆
司法解剖の結果は、現場での見立てを裏付けるものだった。
長谷部和也の肺から検出されたのは、大量の「海水」だった。鑑識官の囁きが、高野の脳裏で現実のものとして響いた。
「やはり、ありえない……」
捜査本部に指定された会議室で、美月は唸った。ホワイトボードには、長谷部の顔写真と、現場の見取り図が貼られているが、書き込める情報はほとんどない。「死因は溺死、ただし肺へどうやって入り込んだかは特定不能」という、前代未聞の壁に突き当たっていた。
「長谷部の身辺から、一ヶ月前の事故が浮かび上がりました」
美月がタブレットを高野に見せる。そこにはニュースサイトの記事。『小型クルーザー転覆事故、男女三名のうち一名死亡、一名行方不明』。
「伊豆沖での事故です。乗船者は三人。長谷部和也、婚約者の白石夏帆、そして船を操縦していた友人の伊藤亮介。この事故で伊藤は行方不明。婚約者の白石夏帆は遺体で発見。唯一の生存者が……」
「長谷部、か」
「はい。同僚によれば、事故後、長谷部はひどく塞ぎ込み、『俺が夏帆の代わりに死ねばよかった』と、強い罪悪感を口にしていた、と」
罪悪感。海の事故。そして、海水による溺死。
あまりに出来すぎた符号に、高野は眉間の皺を深くした。だが、それがどう繋がる? 罪悪感が、高層ビルの二十三階に海水を呼び寄せたとでも言うのだろうか。
捜査は完全に行き詰まった。高野の中に、じりじりと内側を焼くような焦燥感が募っていく。
そんな矢先、第二の事件が起きた。
◆
今度の現場は、昼下がりの陽光が満ちる公園だった。ベンチに腰掛けたまま、若い女性が死んでいた。買い物袋を膝に抱え、まるで居眠りしているかのような安らかな顔で。だが、彼女の呼吸は永遠に止まっていた。
そして、その死因もまた、溺死だった。肺を満たしていたのは、同じく海水。
現場に駆けつけた高野は、被害者の顔を見て息を呑んだ。資料で見た顔だった。
「白石優奈、二十六歳。一ヶ月前の海難事故で亡くなった、白石夏帆の妹です」
美月の報告に、高野は天を仰ぎたくなるのをこらえた。偶然の一言で片付けるには、あまりに禍々しい繋がりだった。
「被害者の妹、白石優奈のSNSから、気になるものが」
美月が見せたスマートフォンの画面。いわゆる裏アカウントに、長谷部和也への呪詛が延々と綴られていた。
『人殺し。あなたが姉を殺した』
『のうのうと生きているのが許せない』
『姉の苦しみを、あなたも味わいなさい』
激しい憎悪。それもまた、人間の強い感情だ。
会議室に戻った二人の間に、重い沈黙が流れた。
高野は苛立ちを紛らわすように、デスクの上の紙コップを掴み、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ込み、それを口に含んだ。
「……っ!」
思わず顔をしかめる。まるで、塩の塊でも舐めたかのような、強烈な塩辛さ。
「どうしました?」
怪訝な顔をする美月に、彼は紙コップを突き出した。
「このコーヒー、やけに塩辛い。誰か塩でも入れたのか」
「え?」
美月は訝しげに、新しい紙コップにコーヒーを注ぎ、恐る恐る一口飲んだが、すぐに首を傾げた。
「いえ……普通ですよ? 高野さん、疲れてるんじゃないですか」
そう言われ、高野は言葉に詰まった。自分の味覚がおかしくなったのか。彼は舌に残る不快な塩味を、唾と共に飲み下した。
ホワイトボードに、長谷部と優奈の顔写真が並ぶ。一人は「罪悪感」に苛まれ、一人は「憎悪」を募らせていた。そして二人とも、ありえない状況で、海水によって命を絶たれた。
「高野さん……こんなもの、報告するのも馬鹿げているんですが」
沈黙を破ったのは美月だった。彼女はPCの画面を高野に向けた。そこに表示されていたのは、古びた都市伝説をまとめたサイト。
「『ゴースト・ウォーター』と呼ばれる怪談です」
「……くだらん」
「聞いてください。『水、特に海や川のように多くの記憶を溶かした水は、死者の強い想いを記録する媒体となる。そして、その記憶は時と場所を超え、生きている人間の強い感情に共鳴する』……と」
「共鳴?」
「はい。強い感情を抱く人間が、その水の記憶とチャンネルが合った時……水が出現する、というものです。荒唐無稽ですが、この二つの事件を説明できる唯一の仮説です」
美月の言葉は、目の前の二つの死を、一つの歪んだ法則で結びつけていた。高野は舌打ちをしたが、何も言い返せない。論理や常識では、この異常事態の城壁は一ミリも崩せないのだ。
彼は窓の外に目をやった。アスファルトとコンクリートの都市。だが、その地下には無数の水道管が網の目のように走り、大気には見えない水分が含まれている。この世界は、人間が思う以上に水で満ちている。もし、その一滴一滴が、人間の感情に反応する時限爆弾だとしたら。
背筋に、乾いた悪寒が走った。
その後、高野は苛立ちを振り払うように席を立ち、署の洗面所へ向かった。蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。その瞬間、手のひらに触れた水の感触に、思わず動きが止まった。
(……なんだ?)
まるで、薄い膜が張ったような、ぬるりとした感触。すぐに水はいつもの冷たさに戻ったが、肌に残る微かな嫌悪感は消えなかった。「くだらん怪談話を聞かされたせいか」。彼は悪態をつき、ペーパータオルで乱暴に顔を拭った。
◆
捜査は暗礁に乗り上げていた。「ゴースト・ウォーター」などという非科学的な仮説を、正式な報告書に書けるはずもない。高野と美月は、最後の藁にもすがる思いで、全ての始まりとなった場所を訪れていた。
伊豆へ向かう車中、重い沈黙が二人を包んでいた。高野は乾いた喉を潤そうと、助手席でペットボトルのミネラルウォーターのキャップを捻った。
パキッ、という音と共にキャップが回った、その瞬間。
―――ざあぁ…………。
耳元で、確かに波の音が聞こえた。すぐに消えたが、心臓が跳ね上がる。彼は隣で運転する美月に気づかれぬよう、息を殺した。ペットボトルの中の、ただの透明な水が、今は不気味な液体の塊に見えた。
やがて車は目的の海辺に到着した。
伊豆の、事故現場となった海辺。
季節外れの曇天の下、砂浜には人の姿はまばらだった。灰色の雲が垂れ込め、潮風が生暖かく頬を撫でる。ざあ、ざあ、と寄せては返す波の音。長谷部が見ていたPCの映像と、全く同じ音だった。
「結局、何も分からないままですかね」
美月が諦めたように呟いた。
高野は答えず、ただ水平線を睨んでいた。この海のどこかで、三人の男女の運命が狂い、また二つの命が失われた。彼らの最後の苦しみや無念が、今もこの波間に溶けて漂っているとでもいうのか。
その時だった。
ポケットの携帯が、けたたましく振動した。ディスプレイには妻の名前。こんな時間に、一体どうした。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。
「もしもし」
『あなた! 大変なの! 健太が……!』
電話の向こうから聞こえる妻の悲鳴に、高野の世界が凍りついた。健太は、入院している七歳の一人息子。生まれつき重い心臓の病を抱えている。
『さっき、容態が急変して……! 先生が、今夜が峠かもしれないって……!』
頭を鈍器で殴られた衝撃。
なぜ、俺はこんな場所にいる。息子のそばにいてやるべきなのに。刑事の使命感? 違う、ただの言い訳だ。俺は、病気の息子と向き合うことから逃げていただけじゃないのか。
鉛を溶かしたような罪悪感が、心の奥底から溢れ出す。それは長谷部が抱えていたものと同質で、優奈が抱いた憎悪にも劣らない、どす黒く、強烈な感情だった。
その瞬間。
世界から、音が消えた。
美月の声も、波音も、風の音も聞こえない。目の前の灰色の海が、ぐにゃりと歪む。違う。海が、こちらに迫ってくる。違う。俺の、内側から、水が――。
「え?」
乾いた砂浜に立っているはずの足首に、氷のような冷たさが絡みついた。幻覚だ。そう思った時には、水はすでに腰まで達していた。抗う間もなく、視界のすべてが灰色の海水に塗り潰された。
ごぼり、と意味のない呼気が漏れる。
息が、できない。
冷たい液体が、意思を持って口から、鼻から、体内に流れ込んでくる。肺が灼けるように熱い。脳が酸素を求めて明滅する。手足を動かそうにも、見えない力に全身を拘束されているかのようだ。これが、死。これが、溺れるということか。
薄れゆく意識の中、誰かの絶望が流れ込んでくる。婚約者を失った男の慟哭。姉を奪われた妹の呪詛。そして、病室で空を見つめる息子の孤独。
もう、どうでもいい。
「高野さん! しっかりして! 高野さん!」
耳元で、必死の叫びが聞こえた。美月の声だ。
はっ、と我に返ると、高野は砂浜の上でのたうち回っていた。全身が己の汗でぐっしょりと濡れている。
「げほっ、ごぼっ……!」
激しく咳き込むと、口から塩辛い液体がまろび出た。紛れもない、海水だった。
高野は震える手で喉を押さえた。見上げると、美月が恐怖と混乱に歪んだ顔で自分を見下ろしている。そして、その向こうには、何事もなかったかのように、ただ静かに波を打ち寄せている灰色の海が広がっていた。
◆
あれから、数カ月が過ぎた。
西新宿の連続怪死事件は、真相不明のまま捜査が打ち切られた。迷宮入り事件として、しかし、関わった者たちの間では「ゴースト・ウォーター」という禁句と共に、分厚いファイルの奥底に封印された。
高野は、その分厚いファイルを私物のロッカーの一番奥に押し込んだ。鍵をかける音だけが、やけに響いた。
翌朝、鏡に映る自分の乾ききった唇を見ても、彼は蛇口に手を伸ばすことができなかった。スーツの内ポケットに収めた、警察手帳の硬い感触だけが、現実との唯一の繋がりだった。
幸いにも、息子の健太は奇跡的に峠を越し、快方へと向かっている。だが、その事実は、高野の罪悪感を消し去りはしなかった。彼らと同じ苦しみを、自分もあの海で味わった。あれは、当然の報いだったはずだ。なのに、自分は生きてしまった。罰を受けることさえ許されなかった。その事実が、決して拭うことのできない罪の証として、彼の心を深く苛み続けていた。
そして彼は、水を極度に恐れるようになっていた。
蛇口をひねれない。妻が淹れた茶を飲むことすら躊躇う。風呂に入れず、シャワーを浴びることも苦痛だった。すべての「水」が、あの砂浜で味わった死の感触を呼び覚ますからだ。
その日、東京は朝から冷たい雨が降っていた。
高野はリビングのソファに座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。雨音が、遠い日の波の音に聞こえる。彼は無意識に喉をごくりと鳴らした。心の渇きは、もう何によっても癒されることはなかった。
ふと、彼の視線が、窓ガラスの一点に留まる。
無数の雨粒が、ガラスの表面を滑り落ちていく。その中の一筋の雫が、まるで意思を持つかのように、奇妙な軌道を描いた。
高野の目には、それが、水の中で必死に手足をばたつかせ、苦痛に歪む、小さな顔に見えた。
ひっ、と短い悲鳴が喉から漏れる。彼は椅子から転げ落ちるようにして、窓から距離を取った。心臓が早鐘を打つ。
怪異は終わっていない。終わるはずがないのだ。
水はどこにでもある。蛇口の中に。
空気の中に。
そして、人間の身体の七割を占める、この内側にさえ。
高野は、震える両手で自分の顔を覆った。
もう、どこにも安全な場所はない。
日常に満ちる水そのものが、彼を永遠に苛み続けるだろう。
終わらない渇きと、乾かない恐怖の中で、彼の時間は、静かに止まってしまった。
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