天使の処刑者
ちょうど先ほど、天使を処刑してきたばかりなんです。だから、私から死の臭いがしていても、どうか気にしないでください。上位天使が集まっているこの神聖な舞踏会には、あまりふさわしくないって臭いだとわかってはいるんです。それに……まさか私のような天使の処刑者が、こうして踊りに誘われるなんて思ってもいませんでしたから。
ふふふ。私のような存在がきちんとステップを刻めているのが意外でしたか? 処刑者になってからはずっとこの舞踏会に参加していますから、皆さんの踊りを見て自然と覚えてしまったんです。ただ、こうして誰かと手を取り合って踊るのは久しぶりなので、間違って足を踏んでしまったらごめんなさい。
ええ、そうです。天使の処刑者には代々、第二階級の位が与えられているので、私もこの舞踏会には毎回参加しなければならないんです。でも、正直この舞踏会は苦手です。星々の輝きを封じ込めたようなシャンデリア。染み一つない、純紅の絨毯。荘厳な音楽が空気を満たしていて、影は居場所を失って息をひそめている。何より、この舞踏会に参加しているのは神からの寵愛を一身に受けている上位天使ばかり。皆が金や純白の羽衣をまとって、光の中を滑るように踊っている。くすんだ灰色の羽をもち、死の臭いをまとった私に、こんな場所は似つかわしくない。まるで澄んだ水面に垂らされた一滴のインクのようだと自分でも思います。天使の処刑を役目とする私には、神の慈愛の光すら届かないほどに深い、地底の洞窟がお似合いなのに。
あなたは私が処刑者だと知って踊りに誘ってくれたのですか? いえ、多くの天使は私が穢れの存在だと思って避けているみたいで、気になったんです。ふふふ。そこまで慌てなくて大丈夫ですよ。他の天使が、私のことをどう思っているのかは、わかってますから。むしろ、噂で聞いていたような存在じゃなくてごめんなさい。私もあなたたちと同じように神にかしづき、与えられた使命を果たそうとする一介の天使に過ぎないんです。ただ違うのは、あなたたち天使が奇跡を運ぶのに対して、私は終わりを与えることしかできないということだけです。
天使が処刑されるところを見たことはありますか? ええ、あなたの言う通り、私たち天使は霊的な存在であり、下界でいうところの死という概念は存在しません。処刑された天使は消えていなくなるのです。神の意志に背き、我々の戒律を破った彼らの翼を、私は神から授かった剣で切り落とします。背中に生えた翼は神との繋がりを意味するもの。翼を失った彼らはゆっくりと消えていきます。苦しみながら、悔いながら、そして処刑者である私を呪いながら。彼らが存在していた場所には彼らを繋いでいた鎖しか残されず、光の跡や羽一つたりとも残りません。それが私たちにとって死ぬということなんです。
自分が処刑されることを考えてみてください。あなた自身ではなくても、あなたの近しい存在でもいいです。もう二度と会うことができなくなる、なんて優しいものではありませんよ? 消えてなくなるんです。脈打つ心臓も、大地を踏みしめる足も、喜ぶこと、悲しむこと、それら一切を含んだ感情の動きも、意思も意識も。
あなたは耐えられない。認めることができない。永遠を約束された自分が、自分の大事な存在が、そのように消えていなくなってしまうことを。だから、私に近づいたんですよね? あらあらステップが止まってますよ。大丈夫です。だからと言って、楽しい踊りを止める理由にはならないですから。
ちょうど一昨日、若い天使が監獄に送られてきました。あなたと同じ柔らかなクリーム色の翼をもった天使です。彼から話を聞いたんです。自分と同じ色の翼を持った、盟友のことを。自分の信念を貫いたのだから、消えるのは怖くない。だけど、別れを告げることもできず、盟友にとても申し訳ないことをしたと彼は言っていました。舞踏会会場に足を踏み入れ、端っこで何かを伺っているあなたの翼の色を見た瞬間、私はあなたがその盟友だということを悟りました。だからこそ、あなたは私に踊りを申し込んだ。処刑者である私には、たった一度だけ誰かの処刑を免除する権限を持つという根も葉もない噂を信じて。
ふふふ。正直な方は好きですよ。神に仕える天使は笑われるくらいに誠実であって欲しいですから。『いついかなる時も汝嘘をつくなかれ』。神もそう仰られています。ただ、私はあなたの期待に応えることはできません。私が誰かの処刑を免除する権利を持っていない、というわけではないです。火のないところに煙が立たないように、あなたが聞いた噂は全くのでたらめではありません。神の名の下で処刑を行うという使命に、天使の処刑者は叛くことができる。処刑を拒否し、まるで神のように罪深き天使を赦すことができる。皮肉なものですよね。差し出された救いの手は、その手を掴む手よりもずっと血塗られ、穢れてしまっているだなんて。
でもですね、この特権は私が思うがままに使うことはできないんです。処刑者が赦しを与えることができるのは、たった一度だけ。処刑される天使は、過去から未来まで存在し続け、その数は砂漠の砂のように途方もない。あなたのお友達が、私がその特権を使うだけの存在であるのか、あなたは私を説得することはできますか?
私はいつも考えています。赦しを請われるたび、呪詛を吐かれるたび、気高く、高貴だった上位天使が、存在の消滅を恐れみっともなく乱れ狂う姿を見るたび、目の前の天使が私が救うべき存在であるのかどうかを。ですが、今まで私がその決断を下したことはありません。処刑者は何のために存在していると思いますか? 処刑者は神が正しいことを証明し続けるために存在しているんです。そして、実際にいつだって神は正しく、間違っているのは彼らなんです。
私には父と呼ぶべき存在の天使がいて、彼は前任の処刑者でした。ええ、そうです。天使は神より造られますから、下界の生き物のように父親や母親というものは存在しません。私はその例外。天使と人間の娘の間に生まれた混血の天使なんです。
父親は下界に降りて人間の娘と交わり、娘は私を身籠りました。あなたも知っている通り、人間と交わることは神が定めた戒律を破る罪深い行為です。交わった天使はもちろん、その間に生まれた天使もまた、その存在自体が神への冒涜であり、処刑される定めです。
ただ、私は今こうしてここにいます。同じ処刑者だった父は、たった一度だけ許された特権を使い、私を生かしてくれたんです。だから私は消滅することなく、ここにいることができる。私がそれを望んでいたかは別として。
父ですか? 父は処刑されました。他ならぬ、自分が命と引き換えに守り抜いた娘の手によって。私が初めて処刑を行った天使は実の父親でした。何もわからないままの幼い私が処刑台に立った時、父は私を見て、慟哭と共に神を呪いました。私は神から与えられた剣を振り下ろし、父親が消滅していくのをずっと見つめ続けました。父を構成していた光の粒が一つ残らず完全に消えてなくなってしまうまで、ずっと。
父は私を生かすために特権を使いました。私が消えてなくなることは間違っていると示すために。私が存在し続けることが正しいと示すために。それはつまり、私たちの創造主である神の意志を否定すること。処刑者としての自身の存在理由を否定すること。私は確かにあなたにご友人を救うことができます。ですが、その特権を使うことは、それだけ重たい決断なのです。
音楽が終わりますね。楽しい時間をありがとうございました。なかなか他の天使と話す機会はないので、楽しかったです。音楽が終わる前に一つだけ。生前の父がよく口にしていたらしい言葉を伝えさせてください。
処刑者として神に仕えていた父は、よくこう言っていたそうです。
『神はいつだって正しい』と。
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お久しぶりです。舞踏会以来ですね。
私もまさかあなたともう一度、それもこの監獄の中でお会いするなんて思ってもいませんでした。
全てが息を潜め、冷たく固い岩に囲まれた監獄。時は止まり、神の慈愛さえ、深海に光が差し込まないように、ここへは届かない。舞踏会場のように華やかな世界しか知らないあなたのような天使にとって、ここが天界の一部だとは信じることもできないでしょう。
私も処刑者として、あなたがどういう罪を犯したのかを知っています。私にあなたの友人を助けてもらう企てが失敗したあなたは、それでも友人を救おうと、処刑者の脱獄計画を立てた。ですが、その企てが実行に移される前に神の監視者に計画がバレ、神はあなたの処刑をお決めになった。
いえ、あなたの懺悔を聞きにきたのではありません。私はあなたに一つの提案をしにやってきたのです。
あなたの処刑が決まったと聞いたとき、私はとても驚きました。あなたが友人を助けようとする意志、覚悟、勇気。あなたの友人を思う気持ちがそれだけ強いということを、私は全く理解できていませんでした。
あなたのような気高き魂の持ち主を、このまま消滅させてしまうのはあまりにも忍びない。私はあなたの目を見て、改めてそう思いました。
提案は簡単です。前にお話しした通り、私にはたった一度だけ、処刑を免除することができる。あなたはお気づきじゃないかもしれませんが、実はすぐ近くの檻房にはあなたのご友人がいらっしゃいます。私はあなたかあなたのご友人のどちらかを救うことができます。どちらを救って欲しいか、あなたに選んで欲しいのです。
ええ。ええ。その通りです。あなたと親友のどちらかは消滅を免れるということです。どうですか? 決まりましたか?
うふふ。そうですか。そうですよね。
あなたは親友ではなく、自分を救ってくれと、そう言っているのですね?
恥じることはありません。罪悪感を覚える必要はありません。永遠の命を与えられた私たちは、無自覚のうちに自分という存在が未来永劫続いていくと信じてしまいます。それが神の思し召し一つで塵のように儚く吹き飛ばされるものでしかないという事実を、この監獄に入れられるまでは決して自覚することはない。
ありがとうございます。私は十分楽しみました。そんなお顔をなさらないでください。舞踏会で見せた時のような凛々しいお顔が台無しですよ。
私はたった一度だけ使うことのできる特権で、あなたかご友人のどちらかを救う。そんな都合のいいことがあるわけないと気が付きませんか? 私が今言った約束は嘘ですし、あなたのご友人はつい先ほど私の手によって処刑されました。
ちなみになんですが、あなたのご友人にもあなたと同じ嘘の約束を持ちかけたんです。あなたのご友人は自分ではなく、あなたを救ってくれと私に懇願してましたよ。私の約束が嘘だと教えたら、あなた以上に深い絶望の表情を浮かべていました。
それでは私には他の仕事があるので失礼しますね。あなたの処刑は明日の日の入り後、すぐです。せめてそれまでの間だけでも、ご自身の罪を認め、神へ祈りを捧げてください。
ええ、そうですね。確かに私は嘘つきです。舞踏会の時にも言ったように、『いついかなる時も汝嘘をつくなかれ』と神は仰っています。私の行為は神の戒律に背く行為であり、許されることではありません。
でも、それ以上に私は神に正しさを証明し続ける天使の処刑者なのです。
神はいつだって正しい。だからこそ、私は証明し続けます。私自身が間違った存在であることを示し続けることで、私の父が間違っていて、神が正しかったということを。