伊織のもう一つの顔
学校が終わり伊織は祐介に別れの挨拶をして早足に教室を出た。
その理由は、今日は伊織のアルバイトの日だったからだ。
伊織は母方の伯母が経営するライブハウスで受付やドリンクを出す仕事をしている。
伊織は中学時代からギターを弾いていて、そのことを聞いた伯母が伊織の通う学校とそれほど遠くない位置にライブハウスがあるため音楽に関わるアルバイトをしないかと提案した。
伊織は最初断っていたが、伯母の提案と説得で押し切られライブハウスで働くことになった。
伊織は学校から20分ほど歩くとライブハウスに到着し、扉を開けて中に入り挨拶をする。
「こんにちは」
「こんにちは伊織くん!」
そう元気よく挨拶を返したのが叔母の山本瑠璃子だ。
瑠璃子はいつもテンションが高く、伊織は疲れるが嫌ではなかった。
「じゃあ準備しましょうか」
そういって瑠璃子と伊織は控室に入った。
そこに用意されているのはウィッグと化粧道具だった。
そして伊織は鏡の前に座り、瑠璃子が後ろに立って櫛で髪をとかしはじめる。
そう。伊織がアルバイトをするにあたって出された提案、それは『メイクをして伊織とは別人として働く』と言うものだった。
伊織は初めは軽くウィッグなどを被って髪色を変える程度だと思って受け入れたが鏡に映っているのは、
「よし、できた!」
メイクをした黒髪のボブカットの絶世の美少女だった。
「……、瑠璃子さん、いつも思うんですけど僕一応こんな顔してますけど男なんですよ?」
「逆よ逆! こんなに可愛い子が男の子なわけないってみんな思うでしょ? これなら普段の伊織くんとも結びつかないだろうしいい案だと思わない?」
「そっそうですか……」
半ば無理やり納得させられた伊織は男女どちらも着ることができそうな服装に着替えた。
今日のライブのドリンクを用意する役割を任されたので伊織はフードコーナーのカウンターに立つ。
そして、ライブハウスが開く時間になり今回ライブをするバンドの観客たちが次々と入ってくる。
このライブハウスは1ドリンク制なので、伊織はチケットを受け取りテキパキと飲み物をカップに入れて渡す。
その作業を繰り返しているとチャラいと言う言葉が似合う男の人に声をかけられる。
「お姉さんめちゃくちゃ可愛いっすね!もしよかったら連絡先教えてくれないっすか?」
「えっ……いやっ……あの……」
伊織が戸惑ってあたふたしていると、
「ちょっと、この張り紙見えないの? うちのスタッフにナンパ・接触・本人の意思を無視した会話禁止って書いてあるでしょ。次やったら出禁にするからね」
横から瑠璃子がチャラい男から伊織を守るように注意し、その男は観客席の方へと退散して行った。
「ありがとうございます。瑠璃子さん……」
「いいのいいの!こんな格好させてるのは私だからね」
「瑠璃子さん、僕の見た目男らしい方向性でしてくれてもいいんですよ?」
「それはダメよ! 私は可愛いものが大好きなんだから! 伊織くんは髪の毛あげれば普通にめちゃくちゃ可愛いけど、メイクしたらもっと可愛くなるからやってるのよ? だからこれは私の自己満足なの」
「じっ自己満足なんですか……」
伊織は実際にメイクをして働いていて助かる部分もあるので強く否定できずにいた。
「でも伊織くんは普段でも顔がめちゃくちゃ綺麗だからちょっと工夫するだけでイケメンにも美少女にもなれるからまた気が向いたらイケメンにして男らしくしてあげる」
「そんな日がくるといいけど」
瑠璃子の言葉に伊織はそう言うがライブの歓声にかき消されて、その声は瑠璃子に届くことはなかった。
そうしてライブが終わり、伊織の仕事も終わったので着替えていつもの姿に戻りライブハウスを出て自宅に向かう。
時刻は午後6時半になり、伊織は適当にコンビニで晩御飯を買う。普段自炊をする伊織だが、アルバイトの日は疲れて自炊ができないのでいつもコンビニやスーパーで惣菜を買って帰っていた。
そして帰り道を歩いていると、見覚えのある人物が伊織の視界に入る。
「あれは……水無瀬さん?」
そこには外国人の老夫婦と困った顔をしていた玲奈がいた。