Chapter.1 ⇒古い木造アパートに帰った中年の男は、ベランダでタバコを吸う若い女を見つける。
世界最高のスパイといえば、事情に詳しいものであればK国のネチャンの名を上げるだろう。
では、史上最高のスパイはと問われると──
「あんたがオジ?」
一日の労働を終え帰宅し、部屋の電気をつけたところで声をかけられ、男はぎょっとした。その女はベランダチェアに足を組んで座り、ベイプ(液体タバコを気化させ吸引するための電子デバイス)をふかしていた。真っ黒なスポーツウェアに身を包んでいたが、長い手足と端正な顔立ちはどこか現実離れしていて、男に警戒することを忘れさせた。男は声を掛けられた事も忘れ、部屋を間違えたのかと思い辺りを見渡したが、そこは昨夜食べたカップケーキのゴミが依然残された、見慣れた自室だった。
「椅子を置くほどの景色には思えないわ」
女はベイプの厚い煙を吐いてそう言った。十三番街の片隅の貧乏アパートに景観は望むべくもなく、ただ別のアパートの煤けた壁が見えるだけだった。
「タバコは辞めてくれ。猫がいるんだ」
男はようやくそう言った。工場作業員を生業とする男にとって、週末の酒と気まぐれに部屋にやってくる近所の野良猫だけが癒やしであった。
「ただのタバコじゃないわ。最先端のリキッドシガーよ」
女は再び厚い煙を吐き出した。
「男一人でカップケーキ?」
女はテーブルの上のゴミを見て続けて言った。
「昨日は誕生日だったんだ」
男はそう答えた。
「ところで、お前は誰なんだ」
男は肘の破れたジャンパーを脱ぎ、のらりくらりとした様子の女の態度に少々腹を立て、努めて毅然とした声色でそう訪ねた。
「ナンス、イェータ、ララ。色々呼ばれてきたけど」
女は真っ赤な唇の口角を上げ、立ち上がった。
「──もっぱらネチャンで通っているわ」
女の背はそれほど高くはない。しかし態度は極めてデカかった。彼女は肩で風切り男に近づくと、
「このタバコは、各種ビタミン、カルシウム、ミネラルを効率よく肺摂取できる美容モロヘイヤタバコなの。最先端なのよ」
と言った。そして電子デバイスのスイッチを切り替え、それを男に押し付けた。男は体を硬直させ、崩れるように倒れた。
「最先端なの」
女の唇から煙が吐き出され、暗転。