そうだ 貴族やめよう
エルシリアは閃いた。
『そうだ、貴族やめよう』
無責任と言うなかれ。
貴族の常識に囚われなければならない以上、彼女が貴族であり続けることは茨の道でしかないからだ。
エルシリア・クビレスは、若き女子爵である。
兄二人の後、最後に生まれた末っ子女子だったので、家族に可愛がられて育った。
しかし残念なことに、仕事中の事故で騎士だった上の兄を、領地の天災で下の兄を亡くした。
それに気を落とした両親も病を得て数年のうちに相次いで亡くなり、今では一人ぼっち。
女子ながら家督を継ぎ、今まで大切にしてくれた家族のためにもと頑張って来た。
幸いにも、領地には信頼できる代官がいて、安心して任せておける。
親が生きているうちに決めてくれた婚約者もいる。
なんとか自分の子供の世代に、領地と爵位を繋ぎさえすれば……
その思いを支えに、この数年を過ごしてきた。
しかし、自分が子爵としての仕事を把握してからと、婚姻を後回しにしたのが間違いだった。
「申し訳ない。好きな人が出来たので、君との婚約を解消したい」
久しぶりのデートで、婚約者から突然の宣言。
そう言われても別に、すっごく好きだったとかいうわけでもないので、精神的なダメージは無かったけれども。
「僕の有責で破棄するほど、お金も無くて。
違約金には全く足りないけれど、これは僕の気持ちとして受け取ってもらえないか?」
婚約者の家が裕福で無いのは知っていた。
渡された金一封を一瞬、返そうとも思ったが、もらっておくことにする。
彼を見送って、困ったことになったと考えこんだ。
成人して数年が経ち、年増と言われても言い返せない年齢。
家族も、頼れる親戚もない。
子爵家には、例えば豊富な資金とか、新しい鉱山といった魅力も無い。新しく婚約者を探すにしても、釣り針に下げる餌が無い。
結果、折れた、というよりは『自分がいくら頑張ったところで、どうも無理そうだ』という諦めの境地に至った。
もし自分が平民なら、まだぎりぎり若い娘で通るし、そもそも、自分で仕事を見つけて働けばいい。
贅沢せず、危険を避ける知恵があれば、それなりに生きて行けるはず。
たとえ一人でも。
「そうだ、貴族やめよう」
ふと口から出てしまった。
「まあそれも、ありかもな」
テーブルの向かいで飲んでいた男が、笑った。
年の頃は、元婚約者より少し上くらいか。
がっしりとした体躯の、労働者風の男だ。
エルシリアは婚約者に取り残された後、すぐに帰る気にもなれず、平民向けの安い飲み屋に来ていた。
平民向けと言っても、大通りにも騎士団の詰所にも近い。
仕事に向かう前の腹ごしらえや仕事帰りの一杯など、騎士たちがしょっちゅう顔を出すので、トラブルはほとんど無い店だ。
貴族令嬢の一人飲みは感心されないが、着飾っているというほどでもないから大丈夫だと思う。
そう、こういうところも、婚約解消の理由だったかもしれない。
兄二人は、エルシリアを妹というより弟のように可愛がってくれた。
その結果、元気で活発だが、淑女力には欠ける女に育ってしまったのだ。
……別に兄を恨んではいないし、今の自分のことも嫌いじゃないけれど。
この店には、生前の兄に連れてきてもらったことがある。
初めての外飲みで酒の強さを見せつけ、兄に引かれたのもいい思い出。
『若い娘さんなのに、すごいねアンタ』
と、女将さんが串焼きをサービスしてくれたっけ。
とにかく酒だけは強いので、酔った挙句、どこかへ連れ去られる心配はない。
『いや別に、連れ去られてもいいか……』
正真正銘ヤケ酒である。
「お姉さん、お酒強そうだね。一緒に飲んでもいいかな?」
そんなエルシリアのテーブルに、ずうずうしく相席してきた男。
最初は警戒したが、口説いてくるわけでもなく、世間話でうまく話を弾ませる男だ。
不快な雰囲気にはならなかったので、そのまま一緒に飲んでいた。
しかし酒が進むうちに、悪酔いはしないものの、だんだん気持ちは緩む。
見も知らぬ相手なら、別にぶっちゃけても構わないだろう。
途中からエルシリアは、自分の身の上を語っていた。
相手も、こんな面白くない話、聞きたくも無かろうが。
「ふんふん。そりゃ、なかなか苦労したね」
余計なツッコミは入れず、男は聞き上手でもあった。
やがて、すっかりお客がいなくなり、店員が空いたテーブルから片付けを始める。
流石に腰を上げなくてはならない。
「お兄さん、家は?」
「ああ、適当に宿を取るつもりだったから」
「寝るだけでよければ、うちに来る?」
「いいのか? それは助かる」
「少し歩くけどいいかしら?」
「酔い覚ましに丁度よかろう」
早朝からの仕事に急ぐ労働者や、朝一の配達の荷車とたまにすれ違いながら、二人で街を歩いていく。
静かな夜の空気と朝の気配が混じり合い、少しずつ活気づいてくる街並み。
建物群の後ろ、見えない地平線から色が付き始める夜明けの時間だ。
「こんな時間に一度、水平線を見てみたいな」
ポツリとこぼしたエルシリアの独り言に、返事があった。
「海を見たことは?」
「絵でしか見たことがないの。
とても綺麗な海の絵で、こんな景色が見られるなら海賊になるって言って、おばあ様に怒られたことがあるわ」
「あの酒の強さでは、女海賊もありだったかもな」
「でしょう?」
「冗談はともかく、俺の家は海の見える丘の上にある。
朝日は山側から昇るが、夕日は海に落ちる。
落ちた後の、少しずつ青に返る空の色は見飽きることがないな」
「……詩人ね」
「初めて言われた」
大柄な男は、笑顔も大きい。
「狭いけど、どうぞどうぞ」
頑張って維持してきた家は、子爵家の王都屋敷としては中の下くらい。
狭い、は謙遜というより事実だ。
「お嬢様、おかえりなさいませ。お客様ですか?」
迎えてくれた執事は少し驚いたようだが、礼を失することは無い。
「一緒に、朝まで飲んじゃって。
悪いけど、客間でお世話してもらえる?」
「かしこまりました。
お客様、ようこそ。どうぞこちらへ」
「ああ、突然申し訳ない。一晩……いや、一昼? 世話になる」
「ひとひる……」
エルシリアが笑い出すと、執事も口に拳を当てて肩を震わせる。
「はは、変な表現だったな」
「あなたは詩人だから」
「お褒めにあずかり光栄だ」
一眠りしたエルシリアは、執務室で急ぎの仕事を片付ける。
それから、お茶を運んでくれた執事に、婚約解消のことと、昨日の思い付きを話してみた。
「子爵家を国に返して、貴族籍を抜けようと思ってるの」
「よろしいのではありませんか」
「爺やは寂しくない? わたしより長く、この子爵家にいるんだし」
両親より年上の執事は、エルシリアが生まれるずっと前からクビレス子爵家の執事だ。
「十分、働かせていただきましたし、私自身は満足です。
何事も、始まりがあれば終わりがございますよ。
それは自然なことです」
「賛成してくれてありがとう」
返上するにしても、そう簡単ではない。
申請が認められても後始末があるし、時期も見なければならない。
だが、執事の協力があれば、うまく進められるだろう。
「お客様がお目覚めです」
メイドが報告に来た。
「談話室にお茶とお菓子を用意いたしましょうか?」
「そうね、お願いするわ」
エルシリアも小腹が空いて来たので丁度いい。
「いや、ぐっすり眠れたよ。ありがとう」
「それは何より」
「何かお礼をしなくちゃいけないところだが」
「たまたま縁があったのだし、気にしないで」
「ありがたい。それで、重ねて申し訳ないんだが一つ頼みがあってだな」
「頼み?」
「俺の名はフラビオ・ガリンド。隣国の伯爵家の次男だ。
まだ父親が当主なので貴族籍にあるが、まあ平民みたいなものだ。
今は家を出て、ちょっとした海運業を営んでいる。
実は仕事の関係で、この国の貴族家の夜会に招待されていて……
出来れば、パートナーを頼めないか?」
「それくらいなら出来ると思うけど、夜会はいつ?」
「一週間後だ」
「わかったわ。それと、よければ今夜も泊ってく?」
「それは、ありがたいが、迷惑ではないのだろうか?」
フラビオはエルシリアに問いかけた後、念のため執事の顔をうかがった。
「もちろんでございます。
最近はお客様をお呼びすることもなかったので、料理人も腕を振るい足りなかったでしょうから」
「ではお言葉に甘えて」
「飲み直しましょう」
「お嬢様、いえ、当主様。連夜の深酒は、お控えください」
「そ、そうね。今夜は……控えめにするわ」
執事の圧に負けたエルシリアを見て、フラビオは声を上げて笑った。
「こ、これは……」
数日後、フラビオから届いた夜会用の衣装一式に、使用人ともども絶句した。
高級品に疎いエルシリアでもわかる。
「このドレスの手触り、相当お高いわよね……」
「そのようですなぁ」
添えられたカードには『素晴らしい宿のお礼も含め』と書かれている。
もてなしたのは使用人たちだが、今のところ、エルシリアが主。
ならば遠慮なく着るしかない。
当日、馬車で迎えに来てくれたフラビオに、ドレス姿を披露する。
「よく、似合ってる」
「ありがとう。あなたの趣味がいいのね。
ピンクのヒラヒラじゃなくて嬉しいわ」
「君は、サバサバした女性だから、こういうシンプルなのが似合うと思ったんだ。
それにしても……スタイル良いね」
「あはは、昔っからお転婆で走り回ってたから」
相手によっては不愉快になりかねない言葉も、フラビオに言われたらちょっと嬉しい誉め言葉に聞こえる。
そんな不思議に、エルシリアは気付いた。
会場に着いた後は主催者に挨拶し、紹介や商談の様子を隣で大人しく見守る。
「まあ、こちらはご婚約者? お似合いね」
商談相手の夫人が、水を向けて来た。
「いえ、ちょうど今、口説いている最中なんですよ」
「応援するわよ」
突然の軽口にも、エルシリアは自然と笑顔になっていた。
「一通り挨拶も終えたし、ここらで一曲踊っていただけますか?」
「喜んで。少し肩が凝ってきたところよ」
「申し訳ない」
テンポの速い曲と、ゆっくりした曲を続けて踊る。
「君は、ダンスが上手いな」
「あなたこそ」
「元婚約者とは、よく踊ったの?」
「婚約者になってから、仕事を覚えるのに忙しくて。
そういえば、夜会も疎かにしていたわ。
婚姻後に、嫌でも出なくちゃいけないと思っていて……」
「そうか」
テラスに出て、フラビオに渡されたシャンパンを飲みながら、エルシリアは打ち明ける。
「執事にも相談して、子爵家を返上することに決めたの。
この夜会が、貴族として最後の思い出になるかも」
「……平民になって何をするつもり?」
「淑女力には自信ないけど、お転婆力はイケてると思うの。
小さい子を追いかけなくちゃいけないような家庭教師なんか、どうかしら?
そういうのが無ければとりあえず、メイドの仕事にでも就ければ」
「もし、国を離れてもいいなら、俺のところで働かないか?」
「海の側の家のメイドなら、日暮れの海が見られるわね」
「綺麗だから是非、見にお出で。
まずは一度、お客として遊びに来ればいい」
「嬉しい! 行ってみたいわ」
「俺の船が、最寄りの港に入るのに合わせてくれれば、移動費も安く済む」
「それは何よりね」
海の見える丘の家に到着したのは、夜会から一年後のことだった。
家というよりも屋敷という構えの建物は、広い敷地に広がっている。
都会と土地の値段が違うにしたって、この豪勢さはどうなの、とエルシリアは同行者を見るが、知らん顔をされてしまった。
「君は、この部屋を使ってくれ」
エルシリアが案内されたのは、大きな窓からテラスに出ることが出来る広い部屋。
「まあ、本当に海がよく見渡せるのね」
「隣が俺の部屋だから、飲み友が御所望なら、夜中でも早朝でも声をかけてくれ」
「ありがとう」
「それから、爺やさんは客間に案内しますので」
執事は引退したが、爺やはエルシリアの旅に同行していた。
『お邪魔でしょうが、子爵家が無くなったとはいえ、主から託されたお嬢様です。こちらにご厄介になるなら僭越ながら、この爺が見極めさせていただこうと、供をした次第で』
『いやいや、爺やさんなら大歓迎ですよ。
あの時、たいへんお世話になりましたし』
というやり取りを、フラビオが港に迎えに来た時に終えている。
「お嬢様、この部屋は、奥様用に設えた部屋のようですな」
爺やと二人部屋に残されると、触れないようにしていたことを指摘された。
「海が見たいと言った、わたしの要望に応えてくれたのだと思うわ」
エルシリアは、あくまで白を切ろうとしてみるが、爺やに通用するわけもない。
「お嬢様」
「はい」
「ご自分のお気持ちは、しっかり把握なさってください。
この爺がお助けできることでは無いのですから」
「……そうね」
その夜、フラビオは二人の客を、地元の海鮮の名店に連れて行った。
内陸で暮らしてきたエルシリアと爺やは、新しい料理が来るたびに目を瞠りながら食事を終える。
「フラビオさん、素敵なおもてなしをありがとうございます。
あのお部屋からの景色も素晴らしいし、ここのお料理もとても美味しかったです」
「あまり改まられると調子が狂う。さっきまでみたいに、楽に喋ってくれ」
「メイドになるかもしれないのに?」
「それなんだが……
よければ、ずっと俺の隣で、あの夕景色を見ないか?」
今日は夕方までよく晴れて、沈む太陽が大きく見えた。
その後、彼の言葉通りの青に返る空と、それをそっと受け止めるような海が美しかった。
「素敵すぎるプロポーズね。
なんだか、自分に言われているのじゃないみたい」
「君以外に、誰に言うんだ」
「本当に、他の人に言ってない?」
「令嬢のくせに、店で一人飲みするような女性が好きなんだ。
そんな人は、俺の知る限り、一人しか思い当たらない」
「そこを気に入られたのならしょうがない。
では、お受けしますか。奥様というお仕事を」
「よろしく頼むよ」
見守っていた爺やは満足気に口を開く。
「では、私は国に帰るといたします」
その言葉に、フラビオが訊ねた。
「今後の当てはあるんですか?」
「特にございませんが、一通りのことは出来ますからな。
爺一人、なんとかなるでしょう」
「それは勿体ない。うちで働きませんか?」
「はて、ここで私に何かできることが?」
「俺の妻の執事を募集中なんです」
「なかなか、お元気そうな奥様で骨が折れそうですが。
そこまでおっしゃるなら、お引き受けせざるを得ませんな」
「……爺や」
「お嬢様、いえ、奥様。
この老いぼれ、命ある限り、お仕えさせていただきますぞ」
「ありがとう、爺や。ありがとう、フラビオさん」
「フラビオと呼んで欲しいな」
「ええ、フラビオ」
「エルシリア、来てくれてありがとう」
「こちらこそ。呼んでくれて、ありがとう」
見つめ合う二人を残し、執事は早速仕事を始めた。
まずは馬車を呼びに、エントランスへと歩き出す。
「お二人のお子様を見守れるよう、長生きしませんとなぁ」
そんな独り言をつぶやきながら。




